ユダヤ人の知的伝統:ドイチャー「非ユダヤ的ユダヤ人」

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ユダヤ人の歴史には、ユダヤ教をめぐる異端の伝統があって、その伝統の中からスピノザ、ハイネ、マルクスといった偉大な思想家が現れたとドイッチャーはいう。かれらは、ユダヤ人でありながら、ユダヤ人の民族的なアイデンティティを超えて、真の国際人になろうとした。それをドイッチャーは「非ユダヤ的ユダヤ人」と呼び、自分自身をその伝統につなげようとするのである。ドイッチャーは、かれの同時代人であるローザ・ルクセンブルグやレオン・トロツキーもそうした非ユダヤ人的ユダヤ人に含めている。フロイトについてもそうである。

ユダヤ人のなかでの異端の伝統をドイッチャーは、キリストの死後間もない頃に活躍したエリシアにさかのぼらせている。エリシアは、ユダヤ教の偉大なラビであるメイールの師匠であるが、なぜその偉大なラビが異端者の教えをうけたのか、それについてドイッチャーは色々と考えたあげく、ユダヤ人のなかには、異端を受容するだけの寛容性があったのだと結論付けたようである。だからこそ、なんだかんだと言いながら、そうした寛容性に育まれて、スピノザをはじめ、ユダヤの民族性に固執しないコスモポリタンな思想家を輩出できたと、そうドイッチャーは考えるのである。

スピノザの思想的営みは、ユダヤ教の中にある根本的な矛盾を自覚したことから始まったとドイッチャーはいう。「それは普遍的一神教の神と、その神がユダヤ教の中で自己を示す仕方~すなわち一民族にのみ妥当する神~の間に見られる矛盾、普遍の神とその神の『選民』との間の矛盾であった」(鈴木一郎訳)というのである。その矛盾を解決しようとする努力がスピノザを、コスモポリタンな思想家に鍛え上げた。スピノザは、「矛盾する諸勢力を調和し、この世に対する高次の展望と整然たる体系を形成することができた」のである。日本人の本居宣長が、日本土着の太陽神を世界共通の神として何ら矛盾を感じなかったのとは対照的である。

スピノザに比べるとハイネには中途半端なところがあった。ハイネはユダヤ教とキリスト教という二つの勢力を、高次の立場から調和させるというよりも、その二つの間で引き裂かれてしまった、とドイッチャーは見るのである。マルクスはハイネより年下で、ハイネに会って意気投合したようだが、ハイネに比べればずっとコスモポリタン的であった。マルクスは、すでに両親の時代からユダヤ人籍を離れてドイツ人になっていたので、ハイネのようにユダヤ的伝統と衝突することはなかった。だから、真の意味でのコスモポリタンになることができた。マルクスこそスピノザの後継者としてふさわしいというわけである。

ハイネのマルクスとの関係は、ウリエル・アコスタとスピノザの関係に似ているとドイッチャーはいう。アコスタは何回もユダヤ教に背きながら、そのたびにそれを取り消した。ユダヤ的な伝統から自由になれなかったのであり、その点がハイネに引き継がれているというのである。

マルクスが、思想家として羽ばたくにあたって、まずユダヤ人問題を論じたのは有名なことである。「ユダヤ人問題を論ず」と題したその論文の中で、マルクスはユダヤ的なものについて否定的な見解を示している。そのため、ユダヤ人社会から「反セミ主義者」のレッテルを張られたほどである。マルクスはユダヤ精神を資本主義と結びつけ、資本主義はユダヤ精神が実現したものであるから、資本主義が打倒されるべきものとすれば、ユダヤ精神も妥当されねばならないといって、ユダヤ精神の歴史的な限界を強調したのである。たしかに資本主義とユダヤ精神との間に深い結びつきがあることは、誰も否定できないであろう。いまでは、資本主義のグローバル化が進んでいるが、それは世界のユダヤ化を意味するといって過言ではない。

ともあれマルクスは、真にコスモポリタン的な立場から、世界の変革を訴えたのであって、その点では、非ユダヤ的といわねばなるまい。しかしそのマルクスの思想を駆動したものの中に、ドイッチャーはユダヤ的な伝統を感じ取ったのだと思う。ユダヤ的な伝統の中にすでに組み込まれていた非ユダヤ的な要素が、スピノザやマルクスをして真のコスモポリタンたらしめたというわけであろう。

ローザ・ルクセンブルグとレオン・トロツキーは、マルクスの精神的な弟子として、その世界観を受け継いだ。その世界観の基本的な特徴は、楽観的な進歩史観であり、「人類は究極的には一つになるべきである」という信念である。その信念は、世界同時革命によって実現されるというのが、マルクスとその弟子たちの基本的な思想である。その思想が意味を持つのは、偏狭なナショナリズムが世界をひどい混乱に追いやってきたという事実があるからである。世界がそれぞれに異なったナショナリズムに分断されている限り、真の平和は訪れないし、残虐な争いがたえないということは、21世紀の今日においても、残念ながら真実であり続けている。そういう流れが変わらない限り、マルクスの意義はなくならないし、またマルクス主義者を自認するドイッチャーの主張も、色あせることはない。






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