ニーチェと弁証法:ドゥルーズ「ニーチェと哲学」

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ドゥルーズは「ニーチェと哲学」の結論部分を、ニーチェと弁証法の関係について強調することにあてている。これは自然なことだ。ドゥルーズはニーチェを西洋形而上学の破壊者として位置づけており、その形而上学が弁証法によって代表されるのであれば、ニーチェを弁証法の敵対者として描きだすことは、論理的に当然のことである。その弁証法を体系化したのはヘーゲルである。だからニーチェの弁証法への敵対は、ヘーゲル批判という形をとる、とドゥルーズは言う。「ヘーゲルとニーチェとの間に妥協は不可能である」(足立和弘訳)として、両者が不倶戴天の敵だと言うのである。とは言っても、ニーチェが終始一貫してヘーゲルを名指し批判したわけではない。ニーチェが名指し批判したのはソクラテスやプラトンといった哲学者である。だからニーチェは、ヘーゲルその人ではなく、ヘーゲルによって代表される弁証法的なものの見方を批判したといってよい。

ドゥルーズのこの結論部分での意図は、ヘーゲルによって代表される弁証法的思考の特徴を定義したうえで、それにニーチェの思想を対立させることである。もしニーチェの思想が、弁証法的な思考を破壊するほど強力で、しかも人間にとっての全く新しい可能性を提示できるものであれば、われわれはニーチェという思想家のなかに、人類の新たな可能性を見ることができる、ということになる。果たしてニーチェの思想には、それだけのインパクトがあるのだろうか。ドゥルーズは、あると考えているようである。

まず、弁証法の定義。これについてドゥルーズは三つの観念によって定義されるという。「まず、否定の力という観念。この力は対立と矛盾の中に現れる理論的原理である。次に、苦痛と悲惨の価値という観念(「悲惨な受難」の積極的評価)。苦痛と悲惨の価値は、分裂や断裂の中に現れる実践的原理である。最後に、積極性(肯定性)という観念。これは否定そのものの実践的、理論的産物である」。「否定の力」とか「苦痛と悲惨の価値」というのは弁証法の定義として納得できるが、「積極性」とはどういう意味合いか、よくわからぬところがある。おそらくドゥルーズは、措定、反措定、総合という弁証法の三位一体を援用する形で、「総合」に積極性という性格を与えたつもりなのであろう。

ともあれ、弁証法をこのように定義したうえで、「ニーチェの全哲学は、その論戦的意味においてはこの三つの観念にたいする告発である」と言うのである。

まず、否定の力への告発。弁証法は、あらゆる観念の措定に、反措定という形で、否定をからませる。否定によって媒介されなければ、どんな観念も積極的な価値を持たない。十全な意味での観念はかならず否定の否定という形をとるのだ。これに対してニーチェは、否定によって媒介されないような肯定、絶対的な肯定を持ち出す。あらゆるものは、それ自体として、それ自体のもつ差異そのままに肯定される。差異とは他者を前提とした概念であるが、ニーチェの差異は他者を前提としない、それ自体としての差異である。その差異をそのままに肯定するのが、ニーチェの肯定である。それは強者の肯定であって、超人の肯定である。「自己の肯定のかわりに他者の否定を、肯定の肯定のかわりにかの有名な否定の否定を」もってくるのではなく、肯定を肯定としてそのままに受け入れるのである。

次に、苦痛と悲惨の価値への告発。これは直接的には、奴隷的な境遇に慰めを認める価値観の告発であり、キリスト教への告発につながる。ニーチェにとってキリスト教は、奴隷の境遇を正当化するものであり、弱者のための宗教である。

最後に、弁証法的な積極性への告発。弁証法的な積極性は、否定の否定のうえに成り立っているが、ニーチェがそれに対置するのは、肯定の肯定である。以上三つの告発をあわせて、ドゥルーズは次のように言う。「否定の重さにたいしては肯定するものの軽やかさ、弁証法の苦役にたいしては力(への)意志の戯れ、かの有名な否定の否定にたいしては肯定の肯定」。

その告発を通じてニーチェが積極的に提示したかったものはなにか。「多、生成、偶然が肯定の対象だということ」である。弁証法は一、無限、必然性といったものを原理とするが、ニーチェの超人の哲学は、差異としての多、その差異の差異としての生成、その差異の偶然性といったものを、そのままに肯定する。世界は偶然性に満ちており、しかもそれに新たな偶然性がはたらいて絶えず生成する。そのことを認めて、新たな生成をもたらす創造こそが、世界を豊かにする、と考えるところにニーチェの思想のユニークさがある、そうドゥルーズはとらえるのである。

ドゥルーズは、結論部分の冒頭で、現代思想は、キリスト教的唯心論、ヘーゲル弁証法、現代スコラ学たる現象学、ニーチェ的閃光が混ざりあった奇妙奇天烈なごった煮だと言っている。そのうえで、ニーチェに特化することこそが、現代思想が生き残る条件だと言い放つ。ドゥルーズはニーチェをかくまでも重視し、かれを人類の最後の預言者と受けとめているように見える。






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