全機:正法眼蔵を読む

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正法眼蔵第二十二は「全機」の巻。全機とは、存在するものの有している一切のはたらきといった意味である。機という言葉は、機関とか機用という形でもつかわれ、からくりとかしかけ、はたらきといった意味がある。それに全がついて、すべてのはたらきあるいは一切のはたらきということになる。どんなはたらきか。存在する、というはたらきである。存在とは、生死の全体を含む。そこで、全機についての説は、生死をめぐるものとなる。この巻は、実は生死について説いたものなのである。文章としては非常に短いが、味わい深いものがある。

巻の冒頭は次のような言葉で始まる。「佛の大道、その究盡するところ、透なり、現成なり。その透といふは、あるいは生も生を透し、死も死を透するなり。このゆゑに、出生死あり、入生死あり。ともに究盡の大道なり。生死あり、度生死あり。ともに究盡の大道なり。現成これ生なり、生これ現成なり。その現成のとき、生の全現成にあらずといふことなし、死の全現成にあらずといふことなし」。佛の大道の究盡するところは透なり現成なりという。透は透き通って隠れるところがないということ、現成はその透き通ったさまが実現しているということだろう。何が実現しているのか。生死を出ること、生死に入ること、いづれもが実現しているということである。生死を出るといい、生死に入るといい、どういうことか。生死にこだわらないということであろう。要するに生死を超脱するということが肝要なこととされているわけである。道元には「心身脱落」という言葉があるが、それに近い意味の言葉である。

とはいえ、存在には生というものがつきものであるし、また、死もつきものである。生あればかならず死あり、なのである。それゆえ存在するということは、生をして生あらしめ、死をして死たらしむることである。次の段落に、「この機關、よく生ならしめよく死ならしむ。この機關の現成する正當恁麼時、かならずしも大にあらず、かならずしも小にあらず。遍界にあらず、局量にあらず。長遠にあらず、短促にあらず。いまの生はこの機關にあり、この機關はいまの生にあり」とあるのは、そういう事情を説いている。存在するというはたらきが、おのずから生を生ならしめ、死を死ならしむ、と説き、生とは存在のはたらきそのものだと説いているのである。

巻の後半では、圜悟禪師克勤和尚の言葉「生也全機現、死也全機現」が紹介される。全機現とは、全機があますところなく現成するという意味である。存在のはたらきがあますところなく発現されるとも言える。しかして、生也全機現のときには死也全機現を罣礙せずといい、死也全機現のときにには生也全機現を罣礙せずという。それゆえ「生は死を礙せず、死は生を礙せざるなり。盡大地盡空、ともに生にもあり、死にもあり。しかあれども、一枚の盡大地、一枚の盡空を、生にも全機し、死にも全機するにはあらざるなり。一にあらざれども異にあらず、異にあらざれども一にあらず、一にあらざれども多にあらず。このゆゑに、生にも全機現の衆法あり、死にも全機現の衆法あり」ということになる。

生死のはたらきをあますことなく現成せしむるところに、存在の存在たる所以があるということになろうか。







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