ニコライ・スタヴローギンとは何者か:ドストエフスキー「悪霊」を読む

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ニコライ・スタヴローギンは、小説「悪霊」の中でもっとも重要な役割を担わされている人物だ。だが、それにしては謎が多い。この小説のメーン・プロットは、革命思想を抱いた集団の異常な活動ぶりを描くことからなる。その一環として、市街地の放火事件を起こしたり、密告の疑いをかけた男を殺したりする。また、自殺願望の男を、自分たちのシナリオに都合よく利用したりもする。そうした一連の事件がこの小説のメーン・プロットの内容をなすのであるが、それらに直接かかわるのは、ピョートル・ヴェルホーヴェンスキーのほうであって、ニコライ・スタヴローギンは全くと言ってよいほどかかわらないのである。にもかかわらず、かれは非常に影響力の強い存在で、インタナショナルに直接つながる重要人物だというふうに、その集団から思われている。ピョートルなどは、ニコライを自分らの運動の指導者と思い込んでいる。だが、本人はそんなことは思いもよらない。かれは、かつては革命運動にかかわったことがあるらしいが、いまでは、そんなことには興味を抱いていないのだ。

そんなニコライを、この小説はなぜ主人公として扱っているのか。メーン・プロットの趣旨からすれば、ピョートルとその仲間たちこそ、小説全体を動かしていくメーン・キャラクターであってよいはずである。ところが、ピョートルはニコライの付属物のような扱い方をされている。かれは、自分の意志で行動するというよりは、インタナショナルの指導を受けて行動するというふりをするのだが、そのさいに、ニコライがそのインタナショナルを体現する人物だと思い込んでいるのである。つまり、小説は、ニコライを小説全体を代表する主人公として設定し、ピョートルらの行動は、ニコライの立てた方針を具体化するというような擬制をとっているのだ。ところが、ややこしいことに、ニコライ自身には、革命への関心など全くない。そこが、かれが謎であることの原因なのである。

小説が展開する過程で、いくつか山場となる事件が起きる。シュピグーリン工場の労働者たちによる争議行為、市街地への放火とレビャートキン兄妹の殺害、シャートフの殺害、キリーロフの拳銃自殺などである。これらの事件にニコライは直接かかわっていない。ただレビャートキン兄妹が殺された事情は知っていたらしい。かれは無法者のフェージカが兄妹を殺すつもりだったことを知っていながら、それを見逃すことで、結果的に兄妹殺害に加担したということらしいのである。レビャートキン兄妹殺し以外の事件にかかわっているのは、ピョートルのほうである。だが、そのピョートルについては、行動の逐次的な描写がなされないので、読者としてはもどかしい気持ちをさせられるのだ。読者が聞かされるのは、主にニコライの行動についてであって、ピョートルはニコライとのかかわりのなかで、付随的に語られるといった扱いなのだ。それは、語り手の注目が、ピョートルよりニコライのほうへより強く向いているためである。

ニコライに直接かかわるエピソードとしては、四年ぶりに故郷へ戻ってきたその日に、シャートフから暴力を振るわれながら反撃しなかったこと、頭の狂ったびっこの女マリア・レビャートキナを妻と認めたこと、ガガーノフという男と決闘したこと、リザヴェータとのすれ違いの愛などがあげられる。だが、これらのエピソードは、ニコライ個人にかかわるもので、メーン・プロットたる革命運動の描写とはかかわりない。

とはいっても。ニコライが革命運動とまったくかかわりないということではない。革命運動と何らかのかたちでかかわっている人物とは、ニコライは接点をもっている。とうのも、かれはかつてはその運動のメンバーでもあったのだ。メンバーだった時代に、ピョートルと出会い、かれを強く感化したらしい。ニコライが革命運動にかかわったのはスイスにいた時分ということになっているが、そのスイスでピョートルの仲間のヴィルギンスキーらとか、シャートフ、キリーロフ、レビャートキン兄妹らと付き合っている。マリア・レビャートキナと結婚したのはスイスでのことだ。そんな背景があるから、ピョートルがニコライをいまでも仲間と思うことにはそれなりの理由があるのだ。

ニコライがなぜ革命運動から足を洗ったかについては、詳しい叙述はない。かれは、ピョートルらの動向を知っていながら、途中で姿を消してしまう。それをピョートルは裏切りだと思うのだが、ニコライ本人にはそんな運動にコミットしているという意識はないから、裏切りでもなんでもない。ただ、もはやこの町にいる理由がなくなったからにほかならない。その理由とは、一つにはマリア・レビャートキナとの関係にけじめをつけること、もう一つは、リザヴェータとの間に愛の関係を築くことだ。その二人とも死んでしまったからには、ニコライには町にとどまる理由はなにもないのだ。リザヴェータが死んだのは、不慮の事故のようなものだった。彼女はレビャートキン兄妹の殺害現場を見に行った時に、暴徒によって殺されたのだが、それはニコライとの愛人関係を疑われていたことと関係がある。暴徒たちは、レビャートキナはニコライに殺されたのであり、それはリザヴェータとの結婚にマリアが邪魔になったからだと邪推したのである。

こうしてみると、ニコライは、女性関係を調整するために故郷へもどってきたのであり、その際にたまたまピョートルらの革命遊びに巻き込まれたということになるようだ。そうだとすれば、この小説のメーン・プロットにとっては、ニコライは不可欠の存在とはいえない。にもかかわらすドストエフスキーがニコライをこの小説に登場させて、しかも重要な役割を担わせたのは、どんな理由からか。ドストエフスキーは、自分自身をニコライに重ね合わせ、ニコライを通じて、自分自身を語りたかったのではないか。ニコライには、精神病理現象が指摘できる。正常な判断能力を失ったり、耐えがたいほどの苦痛に快楽を感じたり、癲癇の発作への予感があったりというものだ。そういう精神病理現象は、ほかの小説でも繰り返し取り上げられている。それはドストエフスキー自身の精神病理を作品に反映したものと考えられる。そうした精神病理のほか、自分が抱えるさまざまな問題を、ドストエフスキーはニコライを通じて表現したかったのではないか。





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