風姿花伝を読むその四 神儀云・奥義云・花修云

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風姿花伝第四「神儀云」は、申楽の起源と神事とのかかわりについて記したもので、他の部分とは雰囲気が異なる。おそらく申楽者の間の伝聞を記したのであろう。それによれば申楽は天の岩戸の前で神々が踊ったというその遊びに起源があると記したうえで、直接の祖先は欽明天皇の御代に生まれた秦河勝だとする。その河勝が聖徳太子より六十六番の物真似を命じられたのが申楽の正式な発足である。申楽という名は、神楽から神の字のしめすへんを取り除いたものとも、楽しみを申すという意味だとも言われる。

河勝の子孫は金春の流れであって、これはもと円満井といった。それをふくめた大和四座が、春日神社の神事を執り行ってきた。その他に江州三座があって、それらは日枝神社の神事を担当してきた。

風姿花伝第五「奥義云」は、大和申楽と江州申楽の芸風の違い、申楽と田楽の相違について記す。江州は幽玄を主体として物真似を次とし、大和は物真似を主体として幽玄を取り入れる。だが、物真似と幽玄とはどちらが上ということはなく、いづれもうまくこなすべきである。観阿弥は物真似を主体としながら、幽玄無上の風体であった。

田楽には学ぶところが多い。観阿弥は田楽の一忠を、わが風体の師として尊重していた。名人は、他流の申楽や田楽からもよいところは取り入れる姿勢がなければならない。

ついで、観客とのかかわりについて記す。観客には目利きのものと目利かずのものがいる。上手は目利かずの心にかなうことむつかしく、下手は目利きの目に適わぬ。だが真に上手の演者は、どんな観客をもうならせる。要は、能の基本を徹底的に身につければ、どんな観客をもうならせることができるということだ。

観客を選んではいけない。どんな観客でも大事にせねばならない。それを世阿弥は「この芸とは、衆人愛嬌をもて、一座建立の壽福とせり」と言っている。「いかなる上手なりとも、衆人愛嬌欠けたるところあらんをば、壽福増長の為手とは申しがたし」。

以上、第一から第五までは、亡父観阿弥より受け継いだ教えを記したのだと、この巻の末尾に断っている。なお風姿花伝と名付けたのは、「その風を得て、心より心へと伝ふる花なれば」と説明している。

花伝第六「花修云」は、能の台本を書くにあたっての心得を記したもの。曲のおおよそのありようは「序破急」のところで記したとおりとしたうえで、とくに心掛けるべき点について詳説する。まずよき能とは、「本説正しく、珍しき風体にて、詰めどころありて、かかり幽玄ならんを第一とすべし。風体は珍しからねども、煩はしくもなく、直ぐに下りたるが、面白きところあらんを第二とすべし」。どんなできの能であっても、それぞれ用いるべき機会はある。だから悪い能だからと言って捨てることはない。

ただし、「いかなる物まねなればとて、仮令、老尼・姥・老僧などの形して、さのみは狂い怒れることあるべからず。また、怒れる人体にて幽玄の物まね、これ同じ」。これらは似非能・狂能といって、決してやってはならない。

能の演技は、音曲と風情からなるが、「音曲は体なり、風情は用なり」。つまり音曲を重視して、演技をそれにあわすべきである。「音曲の言葉のたよりをもて、風体を色どり給ふべきなり」というのである。

能には、強き・幽玄・弱き・粗きの相違があることを知るべきである。強気と幽玄とは異なる、また弱きと粗きとは異なる。

曲の善し悪しは、為手の芸位によって左右される。また、観客の程度や場所・時間によっても左右される。これらがうまく一致しないと、よい能にはならない。上手な為手でも曲の選択を間違えると失敗するし、下手な為手でも、曲が自分にあっていれば成功するものである。






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