それ自身における差異:ドゥルーズ「差異と反復」を読む

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ドゥルーズの著作「差異と反復」の第一章のタイトルは「それ自身に置ける差異」である。これは実に奇妙な言葉だ。常識的な考えでは、差異というのは、あるものの別のあるものとの相違ということを意味する。あるものに差異があるとすれば、それは別のある者との関係を前提としているわけであるから、差異という概念は媒介された概念であり、したがって相対的な概念ということになるはずだ。ところがドゥルーズは「それ自身における差異」という言葉を使う。「それ自身における」という言葉は、常識的には、他のものとの関係を無視した、したがって何ものにも媒介されない、絶対的な概念ということになる。こうした概念規定は、常識とは著しく異なるので、読者を混乱させることは免れない。

そのこと(著しく常識に反しているということ)は、ドルーズにもわかってはいたのだと思う。だからかれは、その概念(それ自身における差異という概念)について、積極的な規定を与える前に、まず、常識的な意味での差異概念の批判から始めるのである。これこれこういう理由で、常識的な意味における差異の概念には重大な瑕疵がある。その瑕疵を修正して、もっとスマートな概念規定を得るためには、ほかの考え方に改めねばならない。そういった理屈を用いて、差異の概念を遠回しなやり方で変更するという方法をかれはとるのである。

ドゥルーズは、差異についての伝統的な(常識的な)概念をどのように捉えたのであろうか。それをごく単純化していうと、アリストテレスにならって、類の中における種差ということになる。類は同一性を体現しているから、同一性における差異ということになる。この同一性という概念規定を、アリストテレスはプラトンから学んだのであろう。同一性としての理念があって、それが様々なものに分有されることを通じて、そこに差異が生まれる。プラトンのそうした考えをアリストテレスが受け継いで、同一の類における種差という考えを打ち出したといえる。

ドゥルーズは、この同一性における差異という考えを、もっと詳細に展開して見せる。何が同一性の中に差異をもたらすのか、という問いを立てたうえでドルーズは、概念の形式における同一性、諸概念の関係における類比、諸概念相互の間の対立、概念の対象の中にある類似、こういったものが、同一性の内部における差異の根拠となると考えた。要するに差異が認識されるためには、諸概念相互の関係が意識され反省されねばならない。その場合、以上四つの要素は、差異を成立させるための媒介項となる。いずれにしても、同一性とそれに類似したものが、差異を成立させるための媒介項となるのである。

こうした差異についての伝統的な考えにドゥルーズは異議を唱えるわけだが、なぜかれは、そうした異議を唱えるのであろうか。伝統的で常識的な差異のとらえたかでは、なにか重要な欠陥が生じるとでもいうのか。

この問いに対するドゥルーズの答えは、かならずしも説得的ではない。ドゥルーズは、「現代哲学の責務は、『プラトン哲学の転倒』として定義された」(財津理訳)と言い、そのプラトン哲学が同一性の原理の上になりたっているからには、その同一性を否定することがプラトン哲学を転倒するための最大の条件だと言うのであるが、それは論点先取りのようなものであり、伝統的な差異概念を否定する根拠にはならないだろう。

そこでドゥルーズは、ニーチェに助け舟を求める。ニーチェの永遠回帰の思想に、差異の積極的な根拠を見出そうというのである。ニーチェは、プラトン主義の転倒を生涯の課題とした思想家であるから、そのプラトン主義の転倒を自らの課題とするドゥルーズにとって、頼もしい味方ではある。

ニーチェの永遠回帰は実に奇妙な概念であり、それ自体がプロブレマティックだが、ドゥルーズはこれを自説のよりどころとして前提する。ニーチェの永遠回帰は、ドゥルーズの理解するところでは、同一物の反復ではなく、差異の積み重ねである。同一物の反復は、言葉の定義からして、何も新しいものを生まない。世界は永遠に変化しない。しかしそんな馬鹿なことはない。世界はこれまでも変化してきたし、これからも絶えず変化していくだろう。それは、差異が重なることで、新しいものが生成されるからだ、永遠回帰とは新たなものの生成の原理なのである。その生成が人類にとって幸福をもたらす限りにおいて、永遠回帰は人類発展の核心的な原理なのである。

ニーチェの永遠回帰をそのようにとらえたうえで、ドゥルーズは差異に対して、積極的なかつ絶対的な意義を与えるのである。ドゥルーズは、ニーチェの先輩としてヘラクレイトスをあげる。ヘラクレイトスは、プラトンとは異なり、同一性ではなく差異を、不動ではなく生成を自己の原理とする。ヘラクレイトスはよく「生成の哲学者」と呼ばれるが、それは単に学風の特徴づけではなく、真の哲学者という意味に解すべきである。ヘラクレスの生成の哲学は、唯物論と結びついているから、ドゥルーズには唯物論者として自認する資格があろう。

ニーチェは、永遠回帰とカオスは別物ではないとも言った。その意味は、永遠回帰する差異そのものが、カオスだからである。そのカオスの中から、新しい何かが生まれてくる。その辺のロジックは、混沌とした状態(意識の直接与件)から出発し、そこから差異を抽出するという構成をとるベルグソンの分節理論とつながるものを感じさせる。ドゥルーズの差異概念は、そもそもベルグソンから受け継いだものであるから、そうした類似性が認められるのは無理もない。だがドゥルーズは、差異の概念を拡大させて、分節の産物としてではなく、世界そのものの原理とするのである。世界は差異から成り立っている。そこから同一性が生じるのであって、その逆ではない、という信念がドゥルーズを思想的に支えているのである。

なお、この章では、ドゥルーズの主要な概念の一つであるノマドについての言及がある。ノマドとは遊牧民の暮らしを表現する言葉だ。遊牧民は定住しない、つまり同一の土地にこだわらない。そうしたところが、同一性の拒否を原理とするドゥルーズの思想を表すものとして相応しい概念だと受け取られたのであろう。






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