画餅:正法眼蔵を読む

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「画餅」とは、画に描いた餅という意味である。ふつう、画に描いた餅は食えぬという。だから飢えを充たすことはできない。飢えを充たすのは、現実の餅である。現実の餅が本当の餅であり、画に描いた餅は影のような物に過ぎない、というのが常識的な考えである。道元はそれに疑義を呈し、画餅と現実の餅とは、まったく別のもので互いに相いれざるものではなく、餅という概念的な本質を共有するのだと主張する。その主張が成り立つ所以を述べたのが、「画餅」と題する章である。「画餅」は「わひん」と読むように指示されているが、「がへい」と読んで差し支えない。

大きく三つの部分からなる。第一の部分は、総論的なもので、「諸仏これ証なるゆゑに、諸物これ証なり」の一文から始まる。この文の意味は、仏の本質がさとりにあるのならば、万物の本質もまたさとりにあるということである。それを、「一法纔通万法通(一法纔かに通じ万法通ず)」と言い換えている。意味はほとんど同じである。ここで仏とか一法とか言われているものは、本質的な概念をさし、諸仏とか万法とかいわれているものは個別・具体的な実在をさす。餅に関していえば、餅の概念が餅の本質であり、それが個別具体化したものとして現実の餅と画餅とがある。それゆえ現実の餅と画餅とは、同じ餅の本質が具体化したものであって、したがって相互に親縁な関係にある、ということになる。

第二の部分は、以上の議論を、画餅に即して詳細に論じ、第三の部分は、画餅に替えて修竹や芭蕉に即して論じる。そのうえで、ものごとの本質と現実との関係について、一定の結論を出す。その結論は、概念的な本質こそ先にあるとする観念論的なものである。

全体の肝は、題名にあるとおり「画餅」を論じた第二の部分にある。この部分は、「古仏言、画餅不充飢」という一文から始まる。古仏は単に仏と受け取ってもよく、釈迦以来の禅宗の法統につらなるものと受け取ってもい。その言葉として、「画餅は飢えを充たさず」という。それはどういう意味かというのが、この部分の問いかけである。この言葉を文字通りにとると、画に描いた餅では腹の足しにはならぬという俗言と異なるところはないが、道元は、この言葉を正反対の意味に解釈する。この文を表面的に解釈すれば、たしかに俗言のような意味になるが、しかし、「画餅といふ道取、かつて見来せるともがらすくなし」と道元はいう。「道取」とは「言葉」という意味である。その言葉の意味を深く考えたものが少なかったと道元は言うのである。

道元は、彼以前の大部分の人はこの言葉を常識通りに受け取り、画餅の本質を考えることがなかったという。画餅を描くには、餅についてのイメージをもっていなければならない、そのイメージが画餅の本質である。その本質は、現実の餅にも現れている。つまり画餅と現実の餅は本質を共有するのである。そのことを考えないから、画餅と現実の餅とはまったく別のものであって、画餅では腹は充たされぬなどと言うようになる、と道元は言うのだ。そこまでは、論理的に自然な流れだが、道元の面白いところは、画餅こそが餅の本質をよくあらわしており、現実の餅はそれを模倣していると考えるところだ。かれは、「いま現成するところの諸餅、ともに画餅なり」と言い切るのである。「現成」とは現実化するという意味である。だからこの言葉は、「画餅から現実の餅が生まれる」という意味になる。

道元の恐ろしいところは、画餅と現実の餅との関係を、画に描いた仏と本当の仏との関係にも適用し、「一切画仏はみな諸仏なり」ということにある。道元がここでこういう言い方をしているのは、仏というのは悟りの境地を現わした抽象的な概念であって、その概念が本質規定として、画に描いた仏となったり、人格的な仏となったりすると考えるからである。

道元の論理はさらに飛躍する。画餅と現実の餅、画仏と人格的な仏との間の関係は、あらゆる事象について言えることとなる。この世界にはさまざまな物が存在するが、それらの物の本質的なあり方は画図によって表現されるというのである。道元は言う、「恁麼功夫するとき、生死去来はことごとく画図なり。無上菩提すなはち画図なり。おほよそ法界虚空、いづれも画図にあらざるなし」と。恁麼功夫とは、「このように考える」というような意味である。そのように考えれば、世界はすべて画図にあらざるはなし、ということになる。

こういうわけであるから、「もし画は実にあらずといはば、万法みな実にあらず。万法みな実にあらずは、仏法も実にあらず。仏法みな実なるには、画すなはち実なるべし」ということになる。画餅が実なれば、それが食えぬわけはないということになる。ここで、この章の問い、「画餅は飢えを充たさぬか」に道元なりの回答を与えたことになるわけである。

第三の部分は、画餅を修竹芭蕉に置き換えて同じような議論を展開したものである。修竹は長竹のことである。一方芭蕉は短かい。修竹は仏法のたとえ、芭蕉は衆生のたとえである。画餅が仏法として世界の根拠となっていたように、修竹は天地乾坤の根拠であり、芭蕉は衆生を涅槃に赴かせる。衆生を涅槃に赴かせることを、「心意識智を大死ならしむ」と言っているが、それは人間の精神を悠大な死に赴かせるということで、要するに涅槃に赴かせるということである。そういうことが言えるのは、衆生には仏性が備わっているという思想が背後にあるからである。

以上を踏まえてこの章は、次のような言葉で締めくくられている。「この宗旨を参学するとき、いささか転物物転の功徳を身心に究尽するなり。この功徳いまだ現前せざるがごときは、学道の力量いまだ現成せざるなり。この功徳を現成せしむる、証画現成なり」。証画の証はさとりの認識、画は画餅のことで、画餅が本質であるとさとることを意味する。それが「現成」すなわち実現するのだと言っているわけである。






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