風姿花伝を読むその五 別紙口伝

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風姿花伝第七「別紙口伝」が書かれたのは応永二十五年、第六が書かれてから十五年ほどたってからのことである。同じ時期に「花習」が書かれている。この時期以降、世阿弥は芸能論を多く書くようになるので、一つの転機だったと言える。

「別紙口伝」のテーマは花である。花とは、一応芸の見どころとか見せ所といった意味の言葉である。その花について、花とは何かについての議論から始め、歌舞の花、物まねの花、十体と年々去来の花、用心の花、秘する花、因果の花といった具合に詳細に論じている。第六までの中で解かれているものを、改めて論じるといった体裁をとっている部分が多い。

まず、花とはなにかについて。これについて世阿弥は次のように言う。「そもそも花といふに、万木千草において、四季折節に咲くものなれば、その時を得てめづらしき故にもてあそぶなり。申楽も、人の心にめづらしきと知るところ、すなはち面白き心なり。花と面白きと珍しきと、これ三つは同じ心なり」。つまり花(芸の見どころ見せどころ)とは、面白さ・珍しさだというのである。「ただ花は、見る人の心に珍しきが花なり」と世阿弥は言い、マンネリズムに陥ることを戒めている。珍しきとは、観客に意外の観を抱かせることなので、持ち芸を多くして、つねに違った曲を演ずるよう心掛けるべきだということになる。

歌舞の花とは、音曲・舞・はたらき・ふり・風情などにかかわる花である。これについては、基本の型を身に着けたうえで、こまかい工夫をすべしという。「音曲にも、節は定まれる形木、曲は上手のものなり。舞にも、手は習へる形木、品かかりは上手のものなり」。

物真似の花については、自分自身が年寄りならば、別に年寄りの真似をする必要がないという例を持ち出して、真似の対象となるものに自分が一体化することが肝要だと言う。「物まねをきはめて、その物にまことになりぬれば、似せの思ふ心なし」と言うのである。

十体・年々去来の花。十体とはあらゆる芸態という意味である。あらゆるというのは大げさだが、多くの芸を身に着けていれば、マンネリに陥らず、つねに観客に珍しと思われる、ということだ。年々去来の花とは、年々稽古条々で述べた、年ごとの花をいつも身に着け、それをいつでも演じることができるということである。「年々去来とは、幼なかりし時のよそほひ、初心の時分のわざ、手盛りのふるまひ、年寄りての風体、この時分時分の、おのれと身にありし風体を、みな当芸に持つことなり」というのである。そのうえで、「十体のうちを色どらば、百色にもなるべし。その上に、年々去来の品々を一身当芸に持ちたらんは、いかほどの花ぞや」と言う。

用心とは、演技するうえで気をつけるべきことをいう。「怒れる風体にせんときは柔らかなる心を忘るべからず。これいかに怒るとも荒かるまじき手立なり。怒れるに柔らかなる心をもつことめづらしき理なり。また幽玄の物まねに強き理を忘るべからず 」といった具合である。

秘する花とは、一家の秘密として、無暗に公開せぬものをいう。「諸芸道において、その家々に秘事と申すは、秘するによりて大用あるがゆゑなり。しかれば秘事といふことをあらはせば、させることにてもなきものなり」というのである。そんなわけだから、「人に知らせぬをもて、生涯の主になる花とす。秘すれば花、秘せねば花なるべからず」という言葉が意味を持つ。

因果の花とは、能芸にも因果があると知ることである。稽古の善し悪しが原因となって、観客の評価が結果となるということをわきまえるべきだということである。原因には、自分自身の芸の精進のほか、環境もはたらく。環境のうちで重要なのは時分である。時分には男時・女時があって、よき時もあれば悪い時もある。そのことをわきまえて,選曲・演能すべきである、ということになる。

最後に、花とは珍しさであると言い、結局は「ただ珍しき・珍しからぬの二つなり」と強調している。珍しいとは、時を得ているということである。「ただ時に用ゆるをもて花としるべし」と言うのである。






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