正法眼蔵第七十四は「王索仙陀婆」の巻。王索仙陀婆とは、「大般涅槃経」巻九「如来性品」において説かれている比喩のこと。王が仙陀婆を求めると、臣下が王の意をくんで求めに応じる品を差し出した。それは塩であったり、器であったり、水であったり、馬であったりしたが、その際の王の求めによく応えたものであった。そのことから仙陀婆とは、相手の求めに相応しいもののことをさす。それを王が求めたので「王索仙陀婆」というのである。
この比喩で道元が何を言いたいのか、それがいまひとつわからない。この巻は次のような言葉で始まっている。「有句も無句も、藤の如く樹の如し。驢にかひ馬にかふ、水を透り雲を透る」。有といい無といい、それは藤のようでもあり、樹のようでもあり、ロバに餌をやるようでもあり、馬に餌をやるようでもあり、水を通り抜けるようでもあり、雲を通り抜けるようでもある、というのだが、だから何なのだと言いたくなる。
これを解釈する手掛かりとして道元は、王索仙陀婆の比喩を持ち出すのである。この比喩は釈迦が語ったものだ。王が仙陀婆を求めると臣が王の意図を察してそれに応えるものを差し出した。それは塩であったり、器であったり、水であったり、馬であったりしたが、王のその時の求めによく応えたものであった。これからわかることは、仙陀婆という一つの言葉が、色々な意味をもっているということである。それと同じように、有といい無といい、言葉は一つでも意味は多様だと道元は言いたいのか。
道元がとりあえず言っていることは、王索仙陀婆の比喩は、釈迦の思想をよくあらわしたもので、したがって仏教者はその比喩の意図を汲んで修行せねばならないということである。
道元はそうした自分の考えを補強するために、先人たちの故事をいくつか持ちだす。まず宏智古佛の故事。宏智は、趙州と雪竇にかかわる故事を衆に示した。ある僧が趙州に、王が仙陀婆を求めたらどうすればよいかと問うた。それに対して趙州は、身をかがめて手を組み合わせた。すると雪竇がそれを評して、塩を求めているのに馬を奉じたのだと言った。このやりとりについて宏智は、趙州も雪竇も偉大な先人ではあるが、どちらかが正しいとすればもう一方は間違っているということになる。いったいどう考えたらよいか、と言った。これについて道元は自分なりに軍配をあげるわけではない。そのかわりに、趙州が身をかがめて手を組み合わせたことの意味をよく考えるがよいと言っている。
ついで南泉にかかわる故事。南泉は隱峰が来るのを見て、そこに浄水をいれた瓶がある、瓶は動かさずに水だけ持って来いと言った。それに応えて隱峰は、瓶を持っていって南泉の面前で水をぶちまけた。これはどういうことか。瓶と水とは一体なのだから、水だけもっていくというわけにはいかない。だが瓶ごと持って行ったのでは、南泉の求めに応えたことにはならない。
ついで香嚴に関わる故事。ある僧が、王が仙陀婆を求めたらどうすうればよいかと問うた。香嚴はその僧に対して、もっとこっちへ来い、といった。僧がそのとおりにすると香嚴は、「のろまな奴じゃ、人をバカにするな」と罵った。どういうつもりでそんなことを言ったのか。いずれにしても、この言葉は香嚴の一生一代の言葉なのであるから、その意味をよくよく考えるがよい、と道元は言うのみである。
最後に釈迦と文殊に関わる故事。釈迦が高座に上っていると、文殊は槌を鳴らして衆に告げた、法王の法を諦観すれば、法王の法はかくの如くである、と。すると釈迦は座を降りてしまった。このことの意味をどう考えればよいのか。道元は、雪竇山明覺禪師重顯の言葉を引用してこのことの意味を考えようとしているが、どうもはっきりした答えは得られない。道元はただ、中国にはこのことの意味を理解している者がいないと嘆くばかりなのである。
コメントする