「神学・政治論」は、「デカルトの哲学原理」と並んで、スピノザが生前に刊行した著作である。もっとも本名は使わず、偽名で刊行した。だが著者がスピノザであることはすぐ見破られた。この著作は一ユダヤ人が悪魔と共同して書いたもので、聖書およびキリスト教を冒涜することを目的にしているというような非難を浴びた。非難の風あたりはなかなか収まらず、ついには禁書の対象となった。刊行は1670年、禁書は1674年である。その間に盟友のヤン・デ・ウィットが政治的な理由から暗殺されている。
スピノザが「神学・政治論」を書き始めたのは1665年である。すでに「エチカ」の概要を構想していたが、それを中断して「神学・政治論」の執筆にとりかかった。その理由についてスピノザは、オルデンブルグ宛の書簡のなかで述べている。理由は三つあった。第一は、神学者たちの偏見をただすこと、第二は、民衆が自分を無神論者として非難していることが不当であることを説明すること、第三は、哲学することの自由並びに思考することの自由を主張すること、である。
この著作の副題は「聖書の批判と言論の自由」となっている。聖書の批判は、神学者たちの偏見を取り除くために必要な手続きであり、言論の自由は、哲学することの自由を支える基本的な前提である。これらについて解明しながら、自分が無神論者ではなく、かえって真の意味の宗教に敬意を払うものであることが明らかにされる。そうスピノザは考えたのであった。
スピノザが聖書の批判を最大の目的としたのは、かれが生きていた当時のオランダの社会的・政治的情勢がそれをうながしたからである。当時のオランダは、政治的な対立によって分断されており、その政治的対立に宗教上の対立がからんでいた。オレンジ公をいただく保守派(総督派)は、頑迷なカルヴァン主義(正統派)と結びついていた。一方、ヤン・デ・ウィットを首謀者とする改革派(貴族派)は、人間の自由意志を尊重するレモンストラント派と結びついていた。スピノザ自身は、ウィットの盟友として改革派に与していた。そんな中で、保守派の政治的勢力が優勢になり、ついには保守派の一員によってデ・ウィットが殺されるという事態にまで発展する。そうした政治的・社会的な風潮を前にしてスピノザは、保守派・カルヴァン主義正統派のよりどころとなっていた聖書の権威に異議を呈したのであった。
それゆえこの書物は、最初に聖書の批判を通じて、聖書を錦の御旗とする保守派の主張に風穴をあけたのちに、宗教と政治は区別されるべきだと説き、宗教による不当な言論統制に反対して、言論の自由及び哲学する自由を主張するという内容となっている。
このようにこの書物の背景には、極めて実践的な思惑がある。したがって論争的である。論争を通じて敵方の矛盾を暴き出し、聖書の批判的な再解釈と哲学する自由の確保をめざす、というのがこの書物に与えられた役割なのである。
書物の大半は聖書批判にあてられている。その批判の具体的な内容は、この書物で初めて明らかにされたわけではなかった。スピノザは、1656年にユダヤ人コミュニティからユダヤの神を侮辱したことを理由に追放された。それについてスピノザは弁明書を書いて、ユダヤ人の神を相対化することにより、その神の権威をふりかざして自分を弾圧するのは理にかなっていないと批判した。その批判を支えているのは、聖書というのは、ユダヤ人が自分らのために書いた書物であり、また、その内容は矛盾や齟齬に満ちていて、とてもユダヤ人が言うような普遍的な真理をあらわしたものなのではない、ということを主張したものであった。聖書批判にかかわるスピノザのスタンスは、若い頃から一貫したものだったのである。
この書物の中でスピノザは、聖書批判とあわせてユダヤ人の民族的な狭隘さについてくりかえし批判している。ユダヤ人は唯我独尊の気風をもち、他民族に対して苛烈である。それはユダヤ人が被ってきた民族的な迫害に理由の一端があるとはいえ、自分らだけを人間とし、ほかの民族には人間としての尊厳を認めないという姿勢を強めがちである。そうした唯我独尊的な姿勢は、現代のイスラエル人たちにも見られる。かれらはスピノザが言うように、そもそも他民族を侵略支配してしかも他民族に対して苛烈な行動を繰り返し、あわよくば皆殺しにしてもよいといった、きわめて高慢な態度をとっている。そういうやり方は、決して普遍的な価値に基づいたものではない。ユダヤ人らは、自分らの都合のためには、他民族を虐殺する権利をもっていると誤解している。その誤解を、ほかならぬユダヤ人であるスピノザが、歴史上もっとも早く指摘したのである。そんなスピノザをユダヤ人らは許すことができなかった。
そんなわけでこの書物は、聖書批判という体裁をとりながら、ユダヤ民族の手前勝手な振舞いに強い警告を発出しているととらえることもできる。
コメントする