一葉の日記 本郷菊坂町時代

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樋口一葉が日記を書き始めたのは明治24年4月11日、満年齢19歳になったばかりのことであった。一葉にはそれ以前に、明治20年1月に書き始めた「身のふる衣」という日記風の文章があるが、これは覚書程度にみなされるのが普通である。内容は、中島歌子の塾萩乃舎にかかわるものである。14歳で入門し、大勢の人々と交流しあうようになった感想を記したものである。一葉は明治29年11月に満24歳の若さで死ぬのであるが、死ぬ少し前の7月22日まで、多少の中断を伴いながら、日記を書き続けた。中断は、下谷龍泉寺時代が多い。生活に追われて日記を書く余裕がなかったためであろう。小説の創作も途絶えがちになっている。

日記を書き始めたとき、一葉は本郷菊坂町に住んでいた。一葉が、母多喜、妹邦子とともに菊坂町に住み始めたのは明治23年9月のこと。前年の7月に父即義が病死したあと、母子は次兄虎之助の家に引き取られたのであったが、母親が寅之助と不和になり、本郷菊坂町70番地に家を借りて移り住んだのであった。その家は、菊坂のほぼ半ばほどにあったらしい。現在一葉旧居跡とされている場所の近所であった。その旧居跡は、崖のすぐ下にあって、崖の上は鐙坂という坂道になっている。このあたりは起伏の多い土地柄である。

最初の日記は「若葉かげ」と題されている。一葉の日記は40冊ほどになるが、いずれも何らかの形の題名がついている。菊坂町時代の日記の多くは「蓬生日記」あるいは「よもぎふ日記」と題され、この蓬生のイメージが、菊坂町時代の一葉のイメージをあらわしているようである。そんな中で、最初の日記には「若葉かげ」という題をつけた。その理由のようなものを一葉は、日記の冒頭で記している。一葉得意の歌のかたちである。いわく、「卯のはなのうきよの中のうれたさにおのれ若葉のかげにこそすめ」。これは一種の厭世観の表出である。19歳の若い女性としては悲観的なものを感じさせる。

本郷菊坂町時代の日記は、半井桃水への恋情吐露を別にすれば、中島歌子の私塾萩乃舎における活動と、菊坂町の家での厳しい生活の記述が主な内容である。生活の厳しさは日を追って増していき、借金地獄のような様相を呈するにいたる。なにしろ、内職で乏しい銭を稼ぐほか、収入の道はないのである。一葉一家は、武士としての誇りがあるから、いくら貧しくても、誇りを失わない程度の見栄ははらねばならぬし、また、一葉も妹の邦子もまだ大人にはなりきっていない。だから教育のための金も必要である。その金の調達については、とりあえずは母親の仕事だったようだが、そのうち、一葉の肩にも押しかかってくる。一葉は、樋口家の家長として役所に届けていたのである。

この時期の日記の前半は、桃水への恋情吐露が中心なので、それなりに華やかさを感じさせる。若い女性の日記なのであるから、華やかさを欠いては面白くないだろう。だが、事情があって桃水との正規の関係を断ってからは、そうした華やかさは次第に影を潜め、生活の苦しさばかりが表出されるようになる。若い女性が毎日金の心配ばかりしているというのは、まともなことではない。

「若葉かげ」は、萩乃舎の面々が、師匠の中島歌子を含めて、向島の桜を愛でる様子から書き始めている。書き出しは次のような文章である。「吉田かとり子ぬしの澄田河の家に、花見の宴に招かるる日也。友なる人々は、師の君のがりつどひて共に行給ふもおはしき。おのれは、妹のたれこめのみ居て春の風にもあたらぬがうれたければ、いでやともになどそそのかして誘ひ出ぬ。花ぐもりとかいふやらんやうに、少し空打霞みて日のかげのけざやなならぬもいとよし」。向島の花見に招待されたのをいいことに、とかく家にこもりがちな妹を連れだして、一緒に花見をしたという。一葉と邦子との固い絆が伝わってくる記述である。

文章は、王朝の女流日記文学を思わせるような典雅な和文である。以後一葉は、この文体で日記を書き続ける。一葉にとって日記は、創作の訓練のような意義ももたされていたと思われる。なお、小生が利用したテクスト(小学館「全集樋口一葉」第三巻)は、句読点を付し、段落にわけているが、原文は句読点も段落もない、流れるままの文章である。

典雅なのは、文章だけではなく、一葉をとりまく人々の遊びぶりもそうである。単に花見をするだけではなく、歌のやり取りをしたりして、優雅に遊んでいる。この宴の際には、連歌のような歌のやりとりを行っている。年長の同僚田中みの子が、「蛙の声ものどけかりけり」という下句をつけると、それに一葉は「おもふどちおもふことなき花かげは」という上句をつけた。

萩乃舎は、若い頃の一葉にとっては、世間との唯一ともいえる接点だったようである。萩乃舎に出入りする人々は、華族や高級士族の夫人や令嬢であり、また師の中島歌子は、前田家をはじめ名門の家に出入りしていた。一葉はだから、社会の上層の人たちと接していたのである。知り合いの弟子の中には一葉を、中島の使用人のように見なして馬鹿にするものもあった。じっさい一葉は、一時期中島の家に寄宿して、使用人のようにこき使われていたようである。中島歌子はしかし、一葉に必要な教養を与えてくれたし、時には金の面倒も見てくれた。それゆえ一葉は師にマイナスな感情は抱いていない。中島には偏屈なところがあって、年長の弟子田中みの子を毛嫌いするようなところがあり、それについて一葉は冷めた目で見ているが、しかし決して師をバカにはしていない。

相弟子たちのきらびやかな暮らしと自分のそれを比較して、コンプレックスを感じることもあった。時には、盛大な宴に着ていくものがなくて、遠慮したこともある。一葉はしかし、自分の家族が貧しいことは自覚していても、それがもとで自己卑下するようなことはなかった。貧しいのを自分の運命として受け入れていた。自分より貧しくて悲惨な境遇にいる女のこともわかっていた。日記を書き始めてから半年ほどのあるとき、一葉は父親が存命中に住んでいた上野黒門町のあたりを歩いた。その折の感想を日記の中で述べている(明治24年10月4日)。「前住みける家の前を過てくるに、あやしき待合などいふ家出来たり・・・待合といふものはいかなる物にや。おのれはしらねど、只文字の表よりみれば、かり初に人を待ちあはすのみの事なめりとみるに、あやしう唄姫など呼上て酒打ち飲み、燈あかうこゑひくく、夜更るまで打ち興ずめり」。

そんなわけで一葉は、世の中には光のあたる部分と、闇の部分が共存しているとふうに考えていた。そして光の部分だけを描くのが作家の甲斐性ではないと考えていた。だから、金港堂から、「歌よむ人の優美なるを出し給へ」との注文を受けた時には、反発している。「さしも其社会にたち交りて、あさましくいとはしきことを見聞きなれぬる身には、歌よむ人とさへいへば、みだりがはしくねじけたる人の様におもはれて、誠のみやびなるをかかんとせば、人しらぬむぐらふに世をせばめたるなどをこそ引出うべけれ。玉だれのおお奥にうちしめり、かひひそまりたる令姫などにも歌よむ人なしといひがたけれど、それらはすべて我眼にうつり来たらずかし」。






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