出家 正法眼蔵を読む

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正法眼蔵第七十五は「出家」の巻。正法眼蔵の本体部分の最後を飾るもので、奥書には寛元四年九月十五日示衆とある(時に道元四十六歳)。この年の六月十五日に、大仏寺を改めて永平寺としており、この示衆は永平寺における最初の示衆である。増谷文雄によれば、期日が判明している範囲で最後の示衆だという。

テーマは、仏教者にとって出家することの意義についてである。それを四つの引用への解釈という形で展開する。最初の引用は「禅苑清規」から。「禅苑清規」とは、禅道場における規律を定めた現存する最古の規則で、雲門宗の慈覚大師・長盧宗賾によって編纂された。結構長い引用だが、冒頭に「三世諸佛、皆曰出家成道」とある。三世の諸々の仏たちはみな出家して成道されたという意味だ。それを踏まえ道元は、「あきらかにしるべし、諸佛諸祖の成道、ただこれ出家受戒のみなり。諸佛諸祖の命脈、ただこれ出家受戒のみなり。いまだかつて出家せざるものは、ならびに佛祖にあらざるなり。佛をみ、祖をみるとは、出家受戒するなり」。出家することが修行の始まりなのであり、出家をせずには仏にはなれないというのである。

二つ目の引用は「大般若経」から。「佛世尊言はく、若し菩薩摩訶薩是の思惟を作さん、我れ何れの時に於てか當に國位を捨て、出家之日、則ち無上正等菩提を成じ、還た是の日に於て妙法輪を轉ずべき。則ち無量無數の有情をして遠塵離垢して、淨法眼を生ぜしめ、復た無量無數の有情をして永く漏を盡くし、心慧解脱せしめ、亦た無量無數の有情をして皆な無上正等菩提に於て不退轉を得せしめん。是れ菩薩摩訶薩、斯の事を成ぜんと欲はば、應に般若波羅蜜を學すべし」。要するに出家することで自らはさとりを得、衆生を救済するようになれる、ということだ。これを踏まえて道元は次のようにいう、「おほよそ無上菩提は、出家受戒のとき滿足するなり・・・まさにしるべし、出家の日は、一異を超越せるなり。出家の日のうちに、三阿祇劫を修證するなり。出家之日のうちに、住無邊劫海、轉妙法輪するなり」。最高のさとりは出家受戒の日になるというのである。

三つ目の引用は龍樹の「大智度論」から。釈迦が酔っ払いを出家受戒させた逸話を語った後、釈迦の次のように言ったという話。「此の婆羅門は、無量劫中にも出家の心無し。今醉後に因つて暫く微心を發す。此の縁の爲の故に、後に出家すべし。是の如く種種の因縁あり。出家の破戒は猶在家の持戒に勝れたり。在家の戒を以ては、解脱を爲さざるなり」。まず出家して後戒を破るのは、在家のものが戒を辞するよりすぐれているという。そのうえで道元は次のようにいう。「佛化はただ出家それ根本なり。いまだ出家せざるは佛法にあらず」。

四つ目の引用は「法華経如来寿量品」から。これは釈迦が衆生の救済のために、若くして出家し無上最高の智慧を得たというもの。釈迦のその行為の意味を道元は次のように説く。「しかあれば、久遠實成は我小出家なり、得阿耨多羅三藐三菩提は我小出家なり」。久遠實成も阿耨多羅三藐三菩提も年若くして出家したからこそ得られたというのである。

最後に、出家の功徳はどれくらいのものかという問に対して、それは頭のてっぺんまでだと答える。頭のてっぺんまでというのは、全身が功徳に満ちているというほどの意味であろう。





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