学海先生の明治維新その六十一

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 前回、学海先生が市民会議所にかかわるようになったいきさつを書いたが、その会議所がゼロから生み出されたような印象を与えたかもしれない。しかしそうではなかった。江戸には徳川時代に町会所というものがあって、一定の自治を行っていた。その最も大きな仕事は天災とか米価騰貴の事態に際して窮民を救済することであった。そのための資金として、町民から集めた七分積金と徳川幕府からの貸付金をあてていた。この町会所とその資金とが維新後もまだ存続していて、それをどうするか、特に巨額な資金の使途をどうするか、懸案となっていた。市民会議所はこの町会所の組織と資金を引き継ぐものとしての役割を期待されたのである。
 学海先生の日記にはそうした事情がまったく触れられておらず、あたかもゼロから会議所が立ち上がったように書かれているが、それは先生自身町会所についての知識がなかったか、あるいは知っていてもあまり興味を抱かなかったか、どちらかだと思われる。
 三井を始めとした豪商は町会所の設立以来深くかかわっていたので、その改組についての議論にあたっても重要な役割をつとめた。学海先生はその三井とか小野とかいった豪商の代理人としての立場で、この会議所問題にかかわったわけである。
 ともあれ明治五年の秋に会議所が立ち上がり、町会所の資金を引き継いだ。その資金で会議所が最初に行った事業は養育院の設立である。養育院とは孤児や老人あるいは乞食などの窮民を収容・救済することを目的とした施設で、窮民対策という点ではまさに町会所以来の伝統を踏まえたものであった。この施設は日本で初めての近代的な福祉施設であり、その後東京府や東京市に運営が引き継がれ、今日では東京都がこれを所管している。敗戦直後には東京の町々にあふれていた戦災孤児の養護に活躍したものだ。
 会議所はまた、日本橋の付け替え工事を実施した。日本橋界隈には三井の本店を始め豪商が集まっていた。そこで日本橋を近代的な意匠の橋に作り直し、これを東京のシンボルにしようとしたわけである。その設計は米国人ハチャラに依頼した。ところがハチャラに正当な報酬を支払うことなく、その設計図にもとづく工事の施行を別の者に任せた。ためにハチャラ大いに怒り、自分の業績を盗んだと言って大騒ぎになった。その騒ぎを鎮める仕事に学海先生があたった。先生としては橋のデザインについてアイデアを聞いたまでで、工事の施行を第三者にゆだねるのは問題ないと思ったのであるが、ハチャラとしては、設計と施行とは一体のものであり、自分の了解を取らずに施行を第三者にまかせることは甚だしい信義違反と言うのであった。
 日本橋を付け替えたついでに、日本橋から新橋に至るメイン道路を西洋風に舗装してもらいたいと政府から依頼されたが、それは国の財政で行うのが筋で、会議所がやらねばならぬ道理はないし、またその資金的な余裕もないといって断ったのであった。その拒絶の理屈も学海先生が考えた。
 また、上野、浅草、芝増上寺、深川八幡宮の四か所が公園用地として東京府に下賜されることとなったが、東京府ではそれらを公園として整備するだけの資金がない。ついては会議所でそれを負担してくれないかと依頼された。これについても会議所は資金が十分でないことを理由に断らざるを得なかった。
 東京府は会議所に資金を無心する一方で、多くの人材を送り込んで来た。町会所以来官民共同でやってきており、会議所に改組された後も公共事業に従事する組織であるから、官民が一体となって運営する必要があるというのがその理由だった。東京府から送り込まれた連中は、みな威張りくさっていた。彼らは学海先生を不審な目で見るのだったが、先生のほうも連中を役立たずで金ばかり欲しがるダニの如き奴らだと思うのだった。
 こんな具合で学海先生は会議所の仕事に没頭する毎日が続いた。時には佐倉藩の同輩から相済会社の運営について相談されることもあり、できる限りの協力を惜しまなかったが、その運営は相変わらず厳しさを感じさせた。そこで先生は靴の製造のような金がかかる割に見込の薄いものをやめて、佐倉の物産、たとえば炭とか茶の販売に力を入れた方がよいのではないかとアドバイスした。佐倉の炭は佐倉炭という名で徳川時代以来江戸に流通しており、ひとつのブランドになっていたのである。それを本格的に売り出せば、かなりの成功が期待できるというわけである。
 会議所が立ち上がった頃に遊女・芸妓令というものが発令された。これは女子の人身売買を禁止したもので、借金のかたに遊廓に売りとばされた遊女たちが解放されることとなった。ところが解放後の身の振り方は個々の遊女にゆだねられたので、多くの遊女は身の振り方に困った。そこで彼女らに授産を施し自立させるための支援が会議所に期待された。だが会議所にはそんなノウハウはないし、また資金も十分ではない。
 とにかく何事か持ち上がるごとに会議所は、金づるとしての役割を政府や東京府から期待されたわけである。
 こんな具合に会議所は設立早々多忙を極めた。その多忙さを見るにつけても、学海先生は大変なことに巻き込まれたと思わずにはいられなかった。そこで自分を引っ張りこんだ岡田平馬を捕まえては愚痴をこぼすこともあった。
「会議所がこんなに多忙になるとはオヌシも予想しておったのかの?」
「いや、ここまでいろんな仕事が押し付けられるとは思いませんでした。やはりなんですな。政府にはやることが山のようにあって、そのための資金も人材も十分ではない。そこで私どもにそのお鉢が回って来るというわけでしょう」
「お鉢どころか、無用の人間どもまで送り込んでくるではないか。あの者どもは無為徒食して会議所に寄生しておるばかりじゃ」
「そう申されましてもな。追い出すわけにも参りませぬ。なにしろ会議所はお上の御目こぼしで成り立っているようなもの。お上とは仲良くしなければなりませぬ」
「あの者どもは拙者を煙たがるばかりか、どんな資格で会議所におるのかと抜かすものもおる」
「先生は三井と小野の代人ということになってございます」
「その代人の資格にけちをつけおるのじゃ。会議所の会員で自分で発言できぬものは発言せぬでもよい、代人を立ててその者に発言をゆだねるのは邪道だと言って、拙者を排斥しようとしておる」
「そんなことは気になさるに及びますまい。先生は三井・小野と契約して代人となっておるのですから、他人からとやかく言われる筋合いはございませぬ。気にせずにお願いします」
「役人上りは横柄な奴が多くて困るの。ところで役人の横柄さといえば、最近の役人はますます横柄になっておる。それにはどうも先日交付された違式詿違条例が悪影響を及ぼしておるようじゃ。役人どもはこの条例を盾にとって、立小便はもとより夫婦喧嘩から子どものしつけまでおせっかいを焼くそうじゃないか。近代国家というが、こんな庶民の生活まで役人が干渉するのが近代国家のあり方なのか、どうも腑に落ちぬことばかりじゃ」
「仰せのとおりで。たしかに近頃は役人どもが肩で風を切って歩くようになりました。今では犬でさえ役人の姿を見ると尻尾を巻いて逃げていく始末です。
 学海先生が岡田平馬との会話で取り上げた違式詿違条例とは、現在の軽犯罪法の前身というべきもので、警察が市民生活の隅々まで介入する根拠となったものである。現在の軽犯罪法もかなり広範な領域にわたって市民生活の規制をしているが、この条例はそれよりも一段と広く市民生活を規制していた。婦人の断髪や男の肌脱ぎ、果ては凧揚げに至るまで、およそ当時の役人が考え付く限りの無作法とか見苦しい行為が規制の対象となっていたのである。このうち違式の罪は小警視が即決し、七十五銭以上一円五十銭以内の罰金または笞十乃至二十回の罰を受けた。とにかく無茶苦茶な法律だった。
 この法律の精神を警察官僚のトップだった川路利良が次のように建議・説明している。
「日本人民は不教の民であり、これに自由を許すべからず。頑悪の民は政府の仁愛を知らず、さりとて如何せん、政府は父母なり人民は子なり、たとえ父母の教を嫌ふも子に教ふるは父母の義務なり、誰か幼者に自由を許さん、其の壮丁に至るの間は、政府宜しく警察の予防を以て此幼者を看護せざるを得ず」
 今の感覚ではすさまじい父権主義というほかはないが、当時はこれが常識的な見方であった。しかし学海先生にはその常識が非常識に見えた。これは先生が世の規格から外れていたためか、あるいは世が人倫から外れていたか、俄かに決することはできない。
 そんな忙しい毎日のうちにも先生は人生を楽しむことを忘れなかった。長らく佐倉を離れて一人暮らしをしていた先生は、独り寝のわびしさを紛らわそうと、一人の女を家に入れて妾としたのである。日記を分析したところ、それは旧暦から新暦へと転換する前後のことだったらしい。その妾のことを先生は小蓮と称している。彼女のことはまた追って触れてみたいと思う。






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