共同生活:大江健三郎

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共同生活とは人間同士の共同生活のことではない。人間と猿との共同生活、或いは猿と人間との共同生活だ。この共同生活は人間にとって快適なものではない。きわめて不愉快なのだ。しかも人間のほうではその共同生活を解消できない。それどころか、自分のすべての生活を猿たちによって支配されていると感じる。つまり彼にはいささかの自由もないのだ。彼は常に猿たちによって拘束されていると感じる。とはいっても肉体的に拘束されているわけではない。精神的に拘束されているのだ。その拘束は猿たちの視線によって行使される。人間は猿たちの視線によって拘束され、支配されているというわけである。

こういうと、この小説が一種のディストピア物語だと聞こえるだろう。実際にそうした要素は色濃く感じられる。オーウェルが「1984」を書いたのは1949年のことだが、大江健三郎が1959年に書いたこの小説は、色々な面で「1984」の問題意識を想起させる。猿たちの視線は「1984」における巧妙な監視装置を思わせるし、主人公が密告によって失職するところは、「1984」の主人公が密告によって拷問を受けるところに似ている。違うのは、「1984」があくまでも現実の世界を描いているということになっているのに対して、この小説は主人公の妄想の世界を描いていたとする点だ。このことでこの小説は、小説としての迫力をかなり減じている。

主人公が猿たちと共同生活をするようになったいきさつについてはあまり触れられていない。小説はいきなり主人公と猿たちとの共同生活の実態を描写することから始まるのだ。主人公の青年は民家の二階の八畳ほどの広さの洋風の部屋を間借りしているのだが、その部屋には四匹の猿が同居していて、それぞれ狭い部屋を四つに分割して縄張りを作り、そこから一歩も外へ出ないで、ひたすら青年の挙動を監視している。そのため青年は何事もなすことができない。一番困るのは、性的衝動の処理だ。猿たちの眼が気になって、部屋の中でマスターベーションが出来ない。そこで青年はしかたなく勤務先のトイレの中でマスターベーションをする。それを同僚の女に覗き見される。女はトイレを仕切る壁の下部の隙間から手鏡を差し出して、青年のマスターベーションの様子を盗み見るのだ。

この猿たちがいるおかげで、青年は恋人を呼び寄せることもできない。恋人は一刻も早く青年と一緒に暮らしたいと、頻繁に電報で訴えてくる。最初は週に二回ほどだったが、やがて毎日電報を打ってくるようになるだろう。青年として女を早く呼び寄せて一緒に暮らしたいのだが、猿たちが同居しているおかげで、その望みが叶わない。

それほど不都合な存在にかかわらず、青年には猿を追い出すという選択肢もないし、自分から出て行くという選択肢もない。彼が猿と同居することは運命づけられているのだ。だから彼に出来ることと言えば、猿にささやかな嫌がらせをすることぐらいだ。その機会は意外と早くやってくる。ある日猿の体に節足動物の一種が寄生虫として住み着き、それが部屋中を歩き回るようになる。その虫は青年にとって無論いやな存在だが、それは猿にとっても同じだろう。だから、その虫を存在するままに放っておけば、猿たちは非常に迷惑するに違いない。とはいえ、虫たちが部屋の中を自由に動き回ることを許しておくわけにもいかない。それでは自分が猿たち以上にまいってしまうからだ。そこで青年は猿たちの体からこぼれおちて、部屋の中を歩き回っている虫を捕まえて殺すことで妥協する。こうすれば、自分の不愉快はいささかなりとも軽減するのに対して、猿の不愉快さはそのまま残るであろう。

こういうわけで青年の境遇はいよいよ不如意なものに傾いていくが、そのうちに劇的な事態が発生する。青年がつとめていた会社を首になるのだ。そのきっかけは、青年のマスターベーションを盗み見していた女事務員が、そのことを会社の同僚にばらしてしまったことだ。女事務員は青年がトイレの中の女性たちを盗み見しながら、その不潔な行為をしていると言って弾劾する。その弾劾をまともに受け取った会社の同僚たちの吊し上げで、青年は変態者の烙印を押され、会社を首になってしまうのだ。

ここまでの話の流れはいかにも流暢な印象を与える一方、読者をきわめて不気味な気分にさせる。こんな不条理なことが起こるのは日常世界では考えられないことだし、もし自分がそのような境遇に陥ったら、どうしてよいかわからなくなるというものだ。それ故この小説がその不気味さをずっと保持して、更に不気味な事態に発展してゆけば、読者は卒倒するほど驚愕するに違いない。その行き着く先には、読者はオーウェルのディストピアを超えて、カフカばりの不条理の世界を見ることになるだろう。

ところがそうはならない。小説は急停車をするようにして物語の進行を中断し、この物語が現実の世界の出来事を語ったものではなく、青年の妄想の世界を語ったものだったと告げられるのだ。そのことで読者は肩すかしを食らった気持ちになる一方、手品の種明かしをされて夢見心地からさめた人のように、安心した気分にさせられるのだ。

それが小説にとってよかったかどうか。そこは何とも言えない。大江がこのようなタイプの小説を手がけるのは初めてのことだったし、しかも大江がそれまで書いていたのはリアルな世界の出来事ばかりだったから、いきなりシュールな世界に没頭するわけにもいかなかったのだろう。大江はこれ以前には、文章の面でも物語の構成の面でもリアルであることにこだわってきた。そのリアルな点は、この小説でも文体の上で貫徹されている。文章がリアルであるために、書かれている世界の非リアルさが余計に浮かび上がってくるというふうになっている。





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