性的人間:大江健三郎

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大江健三郎の初期の小説世界には、暴力と並んで性が大きなテーマとして組み込まれていたが、「性的人間」は性を全面的に前景化した作品である。これ以前の小説では、性が描かれる場合でも、付随的な扱いに止まっていたのだが、とは言ってもかなりインパクトの強い扱いではあったわけだが、この小説においては、性そのものが小説の根本テーマになっている。つまりこの小説は人間にとって性とは何か、ということを正面から問題にしているのである。

もっともこの小説が取り上げる性は、いわゆる正常な性ではなく、つまり男女の間の自然な結びつきではなく、不自然と想念されるような性、男色とか痴漢とかいったものである。さすがに性意識が進んだ現代社会においては、男色も又自然な性のあり方の一つとして数えられるようになってきたが、痴漢のほうは相変わらず異常で倒錯した性、というよりか犯罪的な性現象というふうに見られたままである。そのようなものを性の最も純粋なあらわれとして描いたこの小説は、ある意味社会に対する不届きな挑戦と受け取られなくもない。

そのような反社会的な性を大江は何故ことさらに取り上げたのだろうか。その疑問の中に、大江の小説世界が抱える根本的な問題への手がかりが含まれているようである。

小説を読んで伝わってくるのは、性は人間の根本的な衝動であって、性を通じてこそ人間は自分の存在を実感できるという確信と、その性を抑圧するような社会的な装置は、人間らしさにとっての最大の敵であるという思想だ。従って大江の小悦の主人公たちは、一方では自分の個人的な存在に確信を持ちたいが為に、また一方では自分の性を抑圧する社会的な装置と戦う為にも、自分の反社会的な性的嗜好にこだわらざるを得ない。

しかし、性というものは本質的には相手を求めるものだし、その相手は自分にとって異性であることが当然とされている社会にあって、異性以外のものを性行為の対象としたり、相手を暴力的に姦淫することは許されない。その許されないことに、この小説の主人公たちはこだわり続ける。その結果、自分自身を社会的に葬るようなハメに陥るのである。その葬り方は、主人公の男の場合には痴漢行為を糺弾されるというようなレベルで済むが、彼と親しくなった痴漢少年の場合には、自分の命をかけることにつながる。つまりこの少年は、自分の存在を支えるものとしての性衝動、それは痴漢行為というかたちで発散される衝動なのだが、その衝動に忠実たらんとして自分自身の存在を暴力的に抹殺する道を選ぶのだ。

この自殺した少年の場合には痴漢行為が性的衝動の発散と自己の存在確認の方途となっているのだが、主人公の男の場合には、本来的には男色が自己の存在証明であって、かれが痴漢行為に興味をそそられるようになったのは、偶然からということになっている。それについては一老人が大きな役割を果たす。主人公はこの老人を通じて痴漢行為の醍醐味を知るのであるし、またこの老人と協力して痴漢少年を更生させようともする。主人公と老人の二人組は奇妙な考え方をしていて、自分たちは痴漢行為に醍醐味を感じ、それを頻繁に実行していながら、少年に対してはブレーキ役に徹するのだ。その理由が読者には不可解である。というのも、彼らは少年が痴漢行為によって破滅するのを心配しているのだ。自分自身については破滅を覚悟し的な痴漢行為を働きながら、他人については、それが社会の指弾を浴びるという理由で止めようとするのは、なんとも偽善的な態度だ。

小説は構成上二つの部分に分かれている。前段は男女の集団が繰り広げる乱交パーティだ。このパーティの本当の目的は、主人公が若い俳優を相手に鶏冠をすることなのだが、それがなかなかできずに、ジャズシンガーの娘とセックスする。しかしこの男は通常のセックスでは燃えることが出来ない。そこで妻を相手に鶏姦をすることで、わずかに性の衝動を抑えようとする始末なのである。妻はいずれ、他の男、彼女のビジネス・パートナーである中年男と不倫をするのだが、それは自分を少年の代用品としかみない夫への当てつけだということが後に明らかにされる。

そんな具合でこの小説の主人公は男色に生甲斐を感じているのであったが、それが先にも触れたような経緯で痴漢に興味を抱くようになる。小説の後半は、主人公と老人と少年の三人が繰り広げる痴漢行為についての、いわば形而上学的な考察というべきものになっている。痴漢と形而上学の結びつきは意外にうつるかもしれないが、痴漢というものが反社会的な行為として社会から糺弾されており、それを行うことが自分にとって巨大なリスクを伴う以上、それをあえて行うについては、自分なりに納得した上でないと、なかなか踏み切れないであろう。それゆえあえて痴漢をしようとするものは、自分のする痴漢行為について、形而上学的な根拠付けをしなければ、心が安定しないという事情がある。そんな心の安定なしに闇雲に痴漢行為をするやからは、正常な意味での人間とは言えまい。

それにしてもこの小説は痴漢行為に寛容でありすぎるようだ。と言うのもこの小説は痴漢行為を淡々と描きながら、それが痴漢の当人にとって持つ意味を肯定的に評価しているからだ。決して痴漢の反社会性を指弾したりはしていない。それゆえ道徳感情が豊かな人がこれを読んだらすさまじい拒絶感情を抱くはずだ。

それはともかく、この小説の痴漢行為に対する見方は老人の次のような言葉に集約されている。

「やはりわれわれにはごまかしがあったんだ。結局われわれは、あの少年のように危険な痴漢になるか、痴漢であることをやめるか、そのどちらしか道がないという気がするんだ」

これは、同じく痴漢行為を働くにも、二つのレベルがある。痴漢を自分の生の条件として、徹底的にこだわり、それによる性の解放のためには自分の命を賭する覚悟がいるような、非常に危険なレベルの痴漢と、単に短絡的な性衝動から痴漢をはたらき、それの意味については無自覚なレベルの程度の低い痴漢と、二つのレベルの痴漢がある。そう区分したうえで、前者に徹しきれない痴漢ならやめたほうがよいと言いたいのであろう。







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