是枝裕和には、ドラマチックな筋書きを廃して、人々の日常を淡々と映し出すような傾向が強くある。その日常は、特に変わったことが起るわけではなく、むしろ平凡な人々の平凡な日常が映し出されるだけである。それを是枝は、登場人物が交わす会話によって表現する。会話だからとりとめのない話に傾きがちだが、ときには昔の思い出に触れたり、あるいは話す人の情念を反映していたりもする。そういう何気ない会話を通じて、登場人物たちの生き方をあぶりだしてゆくというのが、是枝の映画の大きな特徴だ。2008年の作品「歩いても歩いても」は、そういう傾向が非常に強く認められるものである。
ある家族が、その家の亡くなった長男の命日の法要に集まる。原田芳雄演じる父親と樹木希林演じる母親の住む家に、次男(阿部寛)とその妻、妻の連れ子、長女とその夫及び二人の子がやってくるのである。久しぶりに集まったそれらの人々の間で交わされる会話が、この映画の殆どといってよい。父親は、かつての自分の仕事に誇りをもっていて、それだけに何もすることがなくなった現状に強い欲求不満を抱いている。母親は、そんな夫にある種のこだわりを抱いている。夫に愛されていないのではないかという疑念が、そのこだわりを生んでいるようなのだ。
一方、子どもに対しては、父親はあとつぎの長男を失ったことに強い喪失感を抱いていて、それを次男によって埋めて欲しいと思っているが、次男はあまり社会的な成功をおさめておらず、あまつさえ子持ちの未亡人とくっついてしまった。父親の自分に対する期待を、次男はうっとうしく感じている。かれはいま失業中で、妻子をどうやって養うかで頭がいっぱいなのだ。
長女は、両親の家をできたら自分たちが継ぎたいと思って、なにかと母親にモーションをかけている。映画は、そんな長女が母親に話しかける場面から始まるのだ。実の娘のわたしがお母さんたちの老後の世話をすれば、お母さんたちも安心でしょう。だからこの家を二世帯向きに改造して一緒に暮らしましょうよと誘うのだ。そんな長女の誘いに母親は乗らない。長女の打算が見え見えだし、第一娘の夫の甲斐性のなさが気に入らない。母親は、できたら次男と一緒に暮らしたいのだ。その次男が子持ちの未亡人と一緒になったことが、母親も気に入らない。できたら別れて欲しい。だから子どもは作らない方がよい。そんな手前勝手な思いを、次男の妻に向かってもむちまけるのだ。
そんな具合でこの家族は、かなり壊れているといった印象を見ている者に与える。しかし崩壊するほどの壊れ方ではない。崩壊をまぬかれて、かろうじてつながっている。そのつながりのはかなさのようなものを、映画は淡々と表現しているのである。
そんなわけだから、観客は、他人の私生活を覗き見たような気分になるだろう。とくに母親が父親に向かって、過去の浮気をとがめるシーンなどは、どこの家にもありそうな話だ。そのきっかけになったのが、一曲の歌謡曲だ。それは1970年代にはやった「ブルーライトヨコハマ」と言う曲で、そのなかに「歩いても歩いても小舟のように」という一節が出て来る。映画の題名はそこから来ているのだが、久しぶりに聞いたこの曲が、亭主の浮気に対する妻の怒りに火をつけたというのがミソだ。この歌を、かつて女のところで機嫌よさそうに夫が歌っているのを聞いて、妻は嫉妬するエネルギーを奪われたということになっている。その奪われたエネルギーが、数十年後にわき出したというわけである。
映画は、家族がいったん解散した所で中断し、その何年か後に、亡くなった両親の墓を次男の家族が参る所を映し出して終わる。その墓参りには、新たに生まれたと思われる小さな女の子も加わっていた。次男は親の思いは別にして、妻に対する夫としての責務を果たしたわけである。
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