月の男(ムーン・マン):大江健三郎を読む

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大江は中編小説「月の男」を、「みずから我が涙をぬぐいたまう日」と合わせて一冊の本にしたが、その理由を本全体の序文のような文章のなかで次のように書いている。「僕は、これら二つの中編小説を書きながら、われわれの想像力を縛る枷を、かえって自分の手がかりにひきつけ、可能なかぎり、いちどは自分自身を、頭から足先まで、その枷でかんじがらめに縛りつけようとした。そして、この過去と未来をつらぬく天皇制に根差した多様な枷によって自分を縛ることから出発し、なんとか自由をかちえようとした作家は、それ自身の右側に「みずから我が涙をぬぐいたまう日」の、真闇の水中眼鏡をかけた自称癌患者をおき、左側に「月の男(ムーン・マン)」の改悛して環境保護運動に入った逃亡宇宙飛行士をおいて、自分の想像力を前に進ませるための、一対の滑車としたのである」

ここで言われていることで肝心なことは、この二つの中編小説をつなぎ合わせるのは、天皇制だということである。天皇制は無論天皇という具体的な人格に体現されるわけだが、その天皇を、この二つの中編小説は「あの人」という言葉で言及している。したがってイコン的に言えば、この二つの中編小説を結びつけているのは、この「あの人」という言葉だということになる。つまりこの二つの中編小説からなる本は、「あの人」をめぐる、作家の想像力の営みだったということにもなる。

「みずから我が涙を」においては、「あの人」という言葉は、大江自身の表現によれば、「真闇の水中眼鏡をかけた自称癌患者」が自分の父親を呼称する言葉なのだが、その父親が天皇について言及する時にも、「あの人」という同じ言葉を使う。つまりこの一つの言葉が二重の意味合いを持たされていたわけだ。ところがこの「月の男」においては、「あの人」という言葉は、端的に天皇その人をさして使われている。二義性のない絶対的な意味を含んだ言葉である。この言葉を使ったのは、この中編小説の重要な登場人物である「月の男(ムーン・マン)」なのであったが、彼は当初、この言葉ではなく、ずばり天皇という言葉、あるいは天皇が日本人の間では「現人神」と言われていることを踏まえ、その「現人神」に会いたいと言ったのであった。ところが、外人のくせに現人神=天皇に会いたいなどとは不遜だと攻撃され、それでしかたなく、婉曲的に、「あの人」と言い換えたのだった。

月の男(ムーン・マン)が何故天皇に拘ったのか。それについて書く前に、月の男(ムーン・マン)という呼び方の由来について見ておきたい。この言葉は、月の男(ムーン・マン)の情婦であり、また語り手である僕の女友達の女流詩人が、自分の詩の中で用いていた言葉が出典となっている。その詩は次のようなものだ。
  ムーン・マン ムーン・マン かれはTOKYOへ逃亡した
  月へ後悔することを恐怖して しかもTOKYOでも
  月の魅力は忘られぬ 満月の夜があるから
  ムーン・マン ムーン・マン

この詩に対しては、当該のムーン・マン自身が激怒して女流詩人を殴ったということになっているが、どういうわけか、この女流詩人も、語り手の僕も、この風変わりの男を呼称するものとして、このムーン・マンという言葉を使い続けるのである。ムーン・マン自身がそれをどのように受け取っていたか、小説の文面からは伝わってこない。だからこれはあくまでも、女流詩人と語り手の僕との間だけの隠語であるかもしれない。いずれにしても、このムーン・マンという言葉は、女流詩人の情夫であり、また僕ともかかわりを持つようになった風変わりな男の特徴をよくあらわしてもいる。

というのも、彼はNASAの宇宙飛行士だったのであり、順調にいっていればルイ・アームストロング船長にかわって自分自身が人類史上初めて月の表面に立った男になるはずだったのであるし、いまでもなんだかんだと言って月の魅力に取りつかれているからである。そのかれが、NASAから逃亡した理由は、発射実験が失敗して乗組員が丸焼けになったことへの恐怖もあったが、それ以上に、もしこの世に神というものがあるとして、「自分が宇宙ロケットにつめこまれて月に向けて打ち出されるのは、その神に対する冒涜じゃないか」と思ったからである。それでかれはその自分自身の感情を裏書きしてもらおうと思い、日本で現人神と思われている天皇に、人類が月へ行くのは間違ったことだと言ってほしく思い、それで是非天皇=あの人に会いたいと考えたのであった。

つまりムーン・マンにとっては、あの人=天皇は、人類の強熱に水をかけてくれる理性的な存在だというような位置づけなのである。しかし天皇自身は理性的であっても、天皇を担ぐ日本人が、天皇を非理性的に振る舞わせる可能性はある。そういうケースでは、「日本人があの人を先頭にして、宇宙開発に乗り出すとなると、日本人はそれこそ地球全体の敵となるだろう。そして再びあの人は反・人間のシンボルとなるだろう。憎悪によって世界のあらゆるところから見つめられるおぞましいシンボルに・・・」

そうならせないためにはどうするべきか、というようなことを、大江はこの小説のなかでは一切書いていない。彼が書いているのは、ムーン・マンが月の呪縛から解放されてエコロジーの運動に打ち込んでいく様子だ。それには、ムーン・マンによって「Mr.鯨」と呼ばれる風変わりなアメリカ人と、その日本人のパートナーの影響があった。とくに細木という日本人は、自分自身が鯨となって、鯨を殺す人類に抗議する目的で焼身自殺する。その自殺を細木の細君は冷ややかに受けとめるのだが、そんな細君に向って、いまや細木のエコロジカルな情熱に感染した語り手までが、細木は「死滅しようとする鯨の代理人として、本当に鯨に同化してむしろ自分は鯨だと信じ切っていたために、わずかにブォッ、ブォッ、ブォッ、ウィン、ウィン、ウィンと歌って抗議」したのだと言うのである。

そんなわけで自分自身エコロジカルな運動に目覚めた語り手は、いまやアメリカでエコロジカルな運動の最前線に立っているムーン・マンに協力すべく、ロード・アイランドまで出かけていくのだが、そこにはすでに女流詩人がムーン・マンと一緒に暮らしており、二人の間には女の子が生まれていた。その女の子を見ると、この小説の語り手であり、かつて女流詩人とセックスをしたこともある僕は、感慨深い思いに耽らずにはいられなかった。僕は思うのだ。

「僕はその幼女が、ほかならぬ僕をふくめてある時期、ある時期の、女流詩人の情人たちによって、彼女の子宮口にむなしく射精されたすべての精液のうちからの、最良の精子を選んで受胎されたのであり、あらゆるむなしく死んだ精子の主の、すなわち僕をふくむすべての幻の父親の、性交後の悲しみの総量をつぐない鎮める子供として、誕生したのだと感じた」

僕がムーン・マンにかくまで惹かれたのは、間にかつての情婦である女流詩人がいたという事情もあるが、それ以上に、二人が人間的につながりあえるものを認めたことにあったようだ。ムーン・マンは僕を、「おまえにはユダヤ人みたいなところがあるよ、ha、ha、ha!」と言い、それに対して僕のほうも、「かれの感情の変化のしかた、虚勢、気の強さ、気の弱さの激しい交替、それにいつもその行動と言葉のかげにまといついている自己嘲笑の性癖などから、しだいに日本人的なものを感じてきたように思った」のだった。

こんなわけでこの中編小説は、ムーン・マンの「あの人=天皇=現人神」へのこだわりを主なテーマにして始まったのであるが、いつの間にか話題はエコロジカルな方面に移って行き、自然に対する人間の不遜さを糾弾するようなさまを呈しながら、何となく終わってしまうのである。






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