レヴィナスを読む:倫理と無限から

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エマニュエル・レヴィナスは、難解と言われる現代フランスの思想家の中でも、とりわけて難解と言ってよい。レヴィナス研究者を自認する内田樹でさえ、レヴィナスの書物は一度や二度読んだだけでは理解できないと言っているくらいだ。実際小生も、「全体性と無限」や「存在の彼方へ」という書物を読むのに、大変な苦労をした。ちゃんと理解できているかどうか、まだわからない始末だ。その理由は色々あるが、小生の能力不足を脇へ置いて言えば、レヴィナスの文章があまり論理的ではないことだ。レヴィナスは自分でも、語りえないことを語るところから自分の思想は始まると言っているくらいだから、やはり自分の主張の非論理性を自覚していたのだと思う。ところが、非論理的な主張ほど、他者にとって理解に苦しむものはないのである。

そんなレヴィナスの思想でも、彼の非論理的な主張の背景にどんな意図が隠されているかをある程度知ることができれば、多少は理解がしやくなるようだ。かれがフィリップ・モネとの間で行った対話「倫理と無限」は、レヴィナス理解のカギをかなりわかりやすい形で与えてくれる。というのもこの対話は、レヴィナス自身の思想形成のプロセスについて本人の口から詳しく語っており、また、かれの主要な著作である四つの書物、「実存から実存者へ」、「時間と他者」、「全体性と無限」、「存在の彼方へ」についての概括的な説明をしてくれているからである。それらの説明を本人の口から聞くと、かれの難解な書物が、どのような意図を込めて書かれているのかが、よく見えてくるのである。

まづレヴィナスは、自分自身の思想形成に影響を与えたいくつかの本について語る。ユダヤ人であるレヴィナスにとって最も重要な書物は「聖書(旧約)」であるが、いわゆる哲学プロパーの書物としては、プラトンの「パイドロス」、カントの「純粋理性批判」、ヘーゲルの「精神現象学」、そしてベルグソンの「時間と自由」だったという。このなかで、プラトンの「パイドロス」からは哲学することの気構えのようなものを学んだらしい。また、ヘーゲルの「精神現象学」は反面教師として読んだらしい。というのも、かれが生涯をかけて批判し続けた全体性をもっとも典型的な形で体現したのがヘーゲルだったからである。その点ではマルクスも同罪で、かれはマルクスをいまでも許せないと語っている。マルクスを全体主義者だと思っているのである。

レヴィナスがベルグソンの「時間と自由」を高く評価するのは、時間を人間の意識に関連づけながら、それを持続として捉えたことにある。そのことで、「時計の時間の優位性を打ち破り、物理学的な時間は派生的なものに過ぎないという考え方を示した」。このような時間の捉え方がなかったならば、ハイデガーの有限な時間というアイデアも生まれなかっただろうといって、レヴィナスはハイデガーの時間論の先駆者としてベルグソンを位置付けている。

これらの本に続いてレヴィナスは、フッサールの現象学的な諸著作とハイデガーの「存在と時間」をあげる。レヴィナスは自分の思想を、現象学的な人間分析というふうに言っているが、フッサールはその現象学的な方法を徹底的に教えてくれたのであるし、ハイデガーの「存在と時間」は、そうした現象学的な方法を、人間の実存について適用した模範的な書物として映ったというわけである。だからハイデガーの業績のうちで、いわゆる存在論にかかわるものについては、レヴィナスはほとんど評価しない。というより、批判的だ。存在はレヴィナスにとっては、乗り越えられるべきものであって、ハイデガーのように、そこにどっぷりとつかりながら満悦するようなものではなかったのだ。

さて、四つの著作のうちの最初のもの、「実存から実存者へ」は、第二次大戦中に、フランス兵としてドイツ軍の捕虜となって、収容所の中で書いたものだとレヴィナスは言っている。収容所の中は当面、命にとっての直接的な脅威はないかもしれないが、しかし命の意味については考えさせるような空間に違いない。ここでレヴィナスは実存と実存者とをモチーフに取り上げるのだが、実存とは人間という存在者が存在するその存在の仕方をいうのであるし、実存者はそのように存在するものであるところの人間をさす。ハイデガーなら現存在と言うところを、わざわざ実存者と言い換えるのは、人間の存在も存在のひとつなのだということを強調したいからだ。この書物は、その人間の存在の仕方としての実存から、人間そのものとしての実存者への移行について語られている。小生はまだこの書物を読んでいないのでなんとも言えないが、レヴィナスが主張したかったことはどうも、抽象的な存在のあり方としての人間の実存を問題にするよりは、具体的に生きている個別の人間そのものが問題なのだということだったようである。その点では、後期の著作「存在するとは別の仕方で、あるいは存在の彼方へ」の問題意識を先取りしたもののようである。

「時間と他者」は、他者の問題を本格的に取り上げた最初の著作という。ハイデガーの実存分析は、他者の問題を正当に取り上げていなかった。ハイデガーの実存分析は、人間存在の本質を死に求めたが、人間が死ぬことは極めてプライベートなことで、そこに他者が介在する余地はない。しかし人間はそのようにして、世界の中で孤立しているわけではない。何故なら人間は、他者とのかかわりのなかで生きるように作られているからだ。だから、他者の問題と向き合わない哲学は、正統な意味での哲学とはいえない。そういう問題意識に導かれながら、レヴィナスは他者の問題を、この書物で本格的に取り上げたということらしいが、この書物もまた小生は未読である。

さて、レヴィナスの第一の主著と言われる「全体性と無限」。これについては小生も既に読んでおり、それなりの批評意識も感じているので、小生のそうした読書体験と絡めながら、この対話での「全体性と無限」への言及を読み進んだ次第だ。この書物のなかで、全体性と無限とは対立関係で考えられている。全体性とは意識の働きのことをいう。意識の働きは、「経験の全体を、理性にかなったことのすべてを一個の全体へと還元する試みとして解釈することが」でき、「この全体性においては、意識が世界を包摂し、意識の外に他のいかなるものも残さないので、かくして意識は絶対的な思惟と」化す。ヘーゲルの意識の哲学は、全体性についての典型的な議論である。それに対して無限とは、全体性のうちに包摂されないものをいう。何故なら全体性とはすべてを包摂するある有限なものの全体をさしていうのに対して、無限はそれからはみ出るからである。その全体性からはみ出るものとしての無限の観念を私に教えてくれるのが他者だということになる。他者は私の全体性に包摂されない、私からは超越したものなのだ。そしてその他者はとりあえず顔として私の前に現われるというのが、「全体性と無限」におけるレヴィナスの議論であった。

この無限の観念をレヴィナスは、デカルトから学んだと言っている。デカルトは、有限な存在である人間が無限の観念をもっているのは、神がそれを人間に植えつけてくれたからだと考えた。何故なら有限なものが無限の観念をもつことは、それ以外にはありえないからだ。デカルトはそこから、人間が無限の観念をもつことを根拠に、無限の存在である神の存在証明に及ぶわけだが、レヴィナスはその手前でとどまり、他者は私の全体性からはみ出るから、私はそれを無限として受け取るほかはないと考えるわけである。何故なら有限な存在である私からはみ出るものを、私は無限としか受け取るほかはないからだ。この辺の思考の道筋にはかなりな飛躍があると小生は考えるのだが、レヴィナスは思考の論理性にはあまり重きを置かないようなのだ。

レヴィナスの第二の主著である「存在の彼方へ」は、存在するとは別の仕方で生きることの意義について議論している。しかしそもそも生きるとは、存在することではないのか。それ以外に、つまり存在するとは別の仕方で生きることなどありうるのか。存在するとは別の仕方で生きるとは、形容矛盾な言い方ではないのか。論理的に考えればそういう異論は当然出て来る。しかしレヴィナスは、論理性にはあまりこだわらない。彼には存在するとは別の仕方で生きることも可能なのである。というのも、存在とは全体性の別名であって、人間の意識に相関的な観念なのである。ところで我々人間には無限の観念がある。その観念を私は他者を通じて学んだのだが、そしてその限りで他者は私にとって超越すべき無限のものだったわけだが、「全体性と無限」においては、他者の私にとっての意義に着目した議論にとどまっていたおかげで、他者に対する私の意義について、語られることはなかった。しかし、他者に対する私も又無限のものとして現われる可能性があるし、またそうでなければならない。そんなわけで私は、私の有限性を超越すべく、存在するとは別の仕方で生きることをめざさねばならない、というのが「存在の彼方へ」で語られたことだというのである。

こういうわけで、レヴィナスには常識を超越するところがあるが、その議論はなかなかチャーミングな響きを伴なっていて、小生のような常識に凝り固まった人間でも首肯させられるところがある。このブログでは当分の間、レヴィナスのそういう議論を取り上げてみたいと思う。(文中の引用は「倫理と無限」西山雄二訳から)






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