我々とは誰か?:強制不妊救済法の主語

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旧優生保護法にもとづいて障害のある人たちに強制的な不妊手術が行われてきた問題で、被害者の救済を目的とした議員立法が成立した。その法律の前文には、「我々」を主語とした反省の言葉が書かれている。そのことについて、被害者やかれらを応援する人の中から、「我々」とは誰をさすのかという疑問の声が起っているという。かれらの考えでは、この問題の本当の責任者は、優生保護法を制定した国であり、また被害者の苦痛を放置してきたのも国であるからして、反省と謝罪の主体は国であるべきだ。したがって「我々」などと曖昧な書き方をするのではなく、国と明記したうえで、国を主語として謝罪と反省の言葉を述べるべきだということになるようだ。

たしかにこのおぞましい事柄の第一次的な責任は国であろう。しかし、よくよく考えれば、障害者などを対象とした不妊手術には、多くの国民がかかわっている。こういう問題は、国が音頭をとって、それに国民が従ったというような単純なことではない。国民の多くが、障害者の不妊手術は必要だと思って、それに積極的に協力したというか、自分たちも国と一緒になって障害者を不妊手術に駆り立てたというのが実情ではないか。

要するに、国民の多数を占める者たちが、強者という立場から、弱者である障害者を抑圧したというのが真相であり、その意味では、国をあげての大規模なイジメガ行われたといってよい。だから日本国民はこの問題で、国に責任を負いかぶせて、自分たちは涼しい顔をしていられるわけにはいかないのである。

そういう言い方をすると、一億総反省の名のもとに国の責任を曖昧にするものだという反論が起こされそうだが、そういう反論が、イジメに加担した国民の責任を曖昧にすることは許されるものではあるまい。こういう問題では、国民全体が責任を感じないことには、根本的な解決は期待できないと知るべきである。





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