存在と意識

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前稿で存在は精神によって基礎づけられると言った。精神は意識として現象する。だから存在がどのようにして基礎づけられ、構成されるかを詳しく知ろうとすれば、意識の働きに注目しなければならない、というのが西洋哲学の伝統的な考えだ。この伝統はそんなに古い歴史を持つわけではない。デカルトに遡るくらいだ。だがデカルトの「我思う故に我あり」のインパクトはあまりにも大きかった。以来西洋の哲学は意識をめぐって展開してきた。意識は、存在を中核としながらも、すべての哲学的な思考がそこで展開する舞台となってきたのである。

「我思う故に我あり」は、とりあえず私というものに注目して、私の存在は私の意識によって基礎づけられているということを意味する。私が存在するからこそ、私は考えるのだというのが常識的な考え方だと思うのだが、何故ならそもそも私が存在していなければ、私が考えたり行動したりということは考えられないわけだからだが、デカルトはそうは考えなかった。私を含めたすべての存在者の存在は、普通に思われているほど自明なことではない。私は、いま目にしている家が実際に存在していると思い込んでいるが、それは私の思い違いかもしれない。たとえば私は、それを夢の中で見ているのかもしれないし、あるいは幻影である可能性もある。人間はとかく幻影に惑わされるものなのだ。だから、なにかの存在を、そのまま信じるのは危険である。なにかの存在を信じるためには、その存在が明証的に基礎づけられていなければならない。その明証的な基礎づけは、デカルトによれば意識の明証性に支えられているのである。

デカルトにとって唯一明証的なのは、私が何かを考えているというその事実であった。私が何かを考えているという事は、私が何かを意識していると言い換えることができる。ここから私の意識があらゆることがらの明証性の起源となる。私の存在そのものも又、その明証性の起源を私の意識のうちにもっている。私は私の存在を意識している、だから私の存在は明証的に断定することができる。私の存在は、私の意識によって基礎づけられているのである。私以外の存在者についても同様である。それらもすべて、私の意識によって基礎づけられる。私自身を含め、世界の内部にあるあらゆる存在者の存在は、私の意識の相関者としての資格において、その明証性を保障されるのである。こうしてデカルトによって、西洋哲学は意識についての学として、以後壮大な展開を示してゆくのである。

デカルトの考え方は一見合理的に見える。私が世界の存在を確信するのは、私の意識を通じてであり、それ以外の何物によるのでもないからだ。私は私の意識のなかで世界と出会い、その存在を確信する。これは私自身についても同様だ。私が私自身を見いだすのは、やはり私の意識の中においてであり、それ以外の場所ではない。私は私の意識の中で私自身と出会うのだ。ここからデカルトは、私の意識が私の存在の根拠だという結論を導き出し、「我思う故に我あり」という、西洋哲学史上最も有名になった命題を掲げたのである。

しかし、よくよく考えると、デカルトのこの思考の道筋は転倒しているのではないか。それは、私が考えるのは私が存在している証拠だ、存在してもいないものが考えるわけがない、という常識にも裏付けられる。デカルトが言っていることの本当の意味は、私は私の存在を私の思考する意識を通じて認識するということであって、私の意識が私の存在を生みだすということではないのではないか。それをデカルトは、私の意識が私の存在の根拠だということで、あたかも私の意識が私の存在の生みの親だというような誤解を生みやすい言い方をした。私が存在しているからこそ私は意識するのであるし、その私の意識を通じて私は私の存在を了解する、というのが本当に適宜な言い方なのではないか。そういう疑問は当然出て来るわけである。

しかし何故かその疑問は、長い間まともに取り上げられたことがなかった。デカルトの主張は長い間西洋哲学にとって、当然の前提として受け取られてきたのである。つまり西洋哲学は、デカルトという幽霊による「意識の呪縛」に長らく取りつかれたと言ってよい。その呪縛を解いて、西洋哲学を再び常識に連れ戻したのはハイデガーだ。ハイデガーは、「我思う故に我あり」を転倒させて、「我あり故に我思う」という、常識にかなう言い方をすることで、西洋哲学を再び常識と一致させたのである。

デカルトは意識の明証性に世界の存在を根拠づけたのであったが、ハイデガーは、人間というものは、世界を明証的な意識に現前化させる以前に、世界についての了解をもっている。その了解が、私の世界認識の基礎になることを明らかにした。私は、それとして明確に意識する前に、世界の存在を漠然と了解しているのである。その了解の中には自分自身の存在についての了解も含まれている。それはいまだ明証性を付与されてはおらず、したがって誤ることもあるが、それを以てデカルトのように存在そのものを否定するのは馬鹿げている。我々人間は、漠然とした存在了解から出発して、その了解を明証化することで、世界の十全な認識を獲得していくようにできているのだ。そのように言うことでハイデガーは、世界の存在についての知を常識的な知と一致させ、デカルトによる「意識の呪縛」から西洋哲学を解放したわけである。

そこで、ハイデガー以後の哲学は、意識から出発して存在を解明するというやり方に躊躇を覚えるようになった。意識から出発したのでは、どうしても意識が存在を基礎づけるという方向に陥りがちだ。そこでとりあえず意識を棚上げにして、存在者の存在の本質を解明しようとする方向に向かった。その方向は、人間の存在は意識だけでは汲みつくせないという漠然とした予感にも合致していた。実際人間が存在する仕方は意識としてだけではないのだ。人間はなによりもまず身体であり、他の人間との関わり合いのなかで生きている社会的な存在だ。そういう社会性とか身体性とかいうものは、意識だけを解明しようとする方法によっては適切に考えることはできない。したがって、人間を思考する存在だとするだけでは、人間の本質は解明できない。人間はまず人間として存在し、そのうえで意識を通じて世界に触れあうというふうに考えることが大事だ。そんなふうにハイデガー以後の哲学は思うようになってきたのである。

最近では、レヴィナスのように、人間の存在性にも疑問を投げかけるような考え方も出て来た。人間を、存在者と考え、その存在者の存在を問題にするようなやり方では、人間の本質は理解できない。人間の本質は、存在するとは別の仕方で発揮される。そうレヴィナスは主張して、人間の問題を、存在者の存在の問題としてではなく、存在するとは別の仕方で生きているものとして捉えることの必然性を説いたのである。もっともこれは、人間についての極めて宗教的な見方を反映しているので、我々日本人のように、本来非宗教的にできている人間には馴染めない考えかもしれないが。

ともあれ、意識を基礎とするにしても、そうではないにしても、存在が哲学の根本問題であるという事情は当分変わらないようである。存在とは当然、存在するものの存在という意味であるが、なぜそういう意味での存在が哲学の根本問題になるのか。それはそれで興味深い課題ではある。






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