存在と意味

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西洋哲学の伝統においては、存在するものと存在することとは分けて考えられる。存在するあるものを存在者といい、その存在者が存在することを存在というわけである。存在するあるものは既に存在しているわけであるから、何故ならすでに存在していなければ存在者とは言われないからだが、その存在者とその存在者の存在とを分けて考えるのは意味がないようにも思われる。存在者において、存在する当のものとそのものの存在とは一致しているのではないか。そうだとすれば、存在者と存在とを分けて考えることに、どれほどの意味があるのか。

ハイデガーなら、こういう疑問は素朴な疑問であると言うだろう。存在者つまり存在するものと、そのものの存在とは別の事柄なのだ。存在者はそれ自体ではまだ、十分に存在しているとはいえない。存在者はまったく存在していないとも言えないが、かといって十全な意味で存在しているとも言えない。というのも、存在者といい、そのものの存在といい、人間によって完全に認識されてこそ意味をもつからだ。その人間の認識能力には限りがあるので、存在者を一瞬してしかも完璧に理解することは出来ない。それにはある一定の時間を要する。その時間の中で存在者の存在が隠れなくあらわになること、それをハイデガーは真理というのだが、その真理が存在の内実をなす。その存在の内実が存在者の存在の本質なのだ。だから、存在者とその存在とは分けて考えなければならない。そうでないと、存在は存在者の陰に埋没し、その真理をあらわにすることがない。

ハイデガーにしたがえば、存在者の真のあり方が存在なのである。存在者があるものとして現われる仕方、それが存在である。存在者があるものとして現われる仕方は、現前化という形をとる。存在者は私の前に現前化することによって、それが私にとって存在しているということを告知する。それ故存在とは、存在者の現前についての知だといえる。それに対して、存在者の何であるかについての知は意味と呼ばれる。

存在者の存在についての知と、存在者の意味についての知は、レベルが違う。存在者の存在についての知とは、存在者が私にとって現前化しているかどうかについての知である。それに対して存在者の意味についての知は、存在者の属性についての知である。現前化と属性とは全く異なったカテゴリーに属する。だから同じ土俵の上で比較することはできない。比較というのは、同じカテゴリーのなかでの種差を指摘することなのだが、現前化と属性とはどのようなカテゴリーにも共属しないからである。

それ故、神の存在についての証明は、本質的に失敗するようになっている。我々はあるものの存在を、それの現前化を通じて知るのであるが、神が我々の前に現前化することはない。神の現前化を目撃したと主張する者もいないわけではないが、それは理性の世界の出来事ではなく、なかば神秘の世界の出来事だと思われている。我々人間は、神秘の世界に超越しない限り、神の現前化に出会うことはないのだ。我々が神について知ることができるのは、神の属性だけである。その属性には、存在は含まれていない。

さて意味とは、存在者の何であるかについての知であった。この知を、我々はどのようにして得るのだろうか。それへの答えは単純ではない。西洋哲学の歴史全体が、その答えを導くことにささげられてきたほどに、深遠でかつ遠大な課題なのである。

存在者の意味をめぐる考察には様々なタイプのものがあるが、ここでは現象学を取り上げてみたい。現象学は、基本的には意識の作用についての学であるが、その意識の作用について考えるなかで、対象の意識への現れ方を論じることを通じて、存在者の意味について深い考察を遂行している。単純化して言うと、意味は意識の作用によって構成されるということになる。意識の作用はノエシスと呼ばれ、それに対応するものとしての意識の対象はノエマと呼ばれるのだが、このノエマとノエシスとの相互関係のなかから意味が浮かび上がって来る。意味とはノエシスがノエマに付与するところのもので、意識の作用によって構成されるものだとするのが、意味についての現象学の基本的な考え方だ。

意味が意識の作用によって構成されるとする考え方は、そもそもカントが提起したものだ。カントは感性的な所与である対象に、意識の働きの中に含まれているアプリオリな枠組みを当てはめることで、概念的な認識が成立すると考えた。現象学はカント程単純化してはいないが、意識の所与に意識が働きかけて概念的な認識を構成すると考える点では、基本的にはカントと同じである。どちらも、意味は人間の意識によって構成されると考える。その場合、対象は、人間の意識が用意している枠組みに当てはめられ、あれがこれとして、認識される。あれとは現前化している対象のことであり、これとは意識が用意しているカテゴリーである。個別の対象は普遍的なカテゴリーに当てはめられることで、初めて存在者として構成されるのである。この場合、カテゴリーがカントのいうようにアプリオリなものか、あるいはアポステリオリなものか、それについて現象学はあまりこだわらない。

意味が意識によって構成されるとする考えは、日本人の思想家広松渉も共有している。もっとも広松にはカントや現象学とは異なったところもある。一つは、意識に与えられた所与を、単なる感覚的な与件として受け取るのではなく、それ以上のあるもの、つまり概念的な内容をともなったものとして端的に受け取るという主張であり、これは直感を概念的な対象にも拡大して考えた西田幾多郎と一致するものである。もう一つは、意識そのものを個人的な意識に閉じこめるのではなく、意識の社会性を主張する点である。我々は対象を我々の用意したカテゴリーにあてはめるのだが、そのカテゴリーはアプリオリなものではなく、また私という人間が個人的に備えているものでもなく、他の人間と共有する間主観的な枠組みだと主張する。間主観的なものであるから、それは他者との間でのコミュミケーションによって形成されたものだという主張につらなる。広松の認識論は、認識の社会的起源を強調するところに特徴があるといえる。

ともあれこの小論の目的は、存在と意味との関連について考察を加えることであった。存在は存在者が我々に現前化する事態をいい、意味は存在者が何であるかについての知だというのが、これまででの中間結論だった。そこから、存在と意味とは異なった範疇に属しており、両者を単純に比較することはできないということが明らかになった。そのことで、存在を対象の属性の一つとして考えがちな傾向に注意をうながした。この傾向は意外と根が深く、いまでも神の存在を神の属性として、そこから神の存在の真実性を証明しようとする者がいるが、これはカテゴリー・ミステークを犯しているのであって、存在と属性とはごちゃまぜにはできないのである。

もっとも、存在することの意味を追求できないわけではない、と言われるかもしれない。しかしそう言われる場合の存在とは、現前化としての存在ではなく、存在しているという事態の是非をさしているのであろう。存在そのことには、何らの是非もありえない。しかし自分が存在してしまったことに後悔を覚えることはありうる。その後悔が、存在することの意味を追求させることはありうる。






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