桑原武夫の新井白石論

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桑原武夫といえば高名なフランス文学者だったが、新井白石を非常に高く評価し、白石の文章のいくつかを現代語訳したり、「荒井白石の先駆性」という小文を書いたりしている。それらを通じて桑原が言いたかったことは、白石が名文家だったということらしい。桑原は言う、「従来の日本文学史家がこうした白石の作品を文学として十分に評価していないことは、まったく遺憾といわざるをえない」と。

白石の文が名文たる所以を、桑原は次のように言う。「それは古武士的であるという意味において簡潔的確であり、科学的といっていい面をもっている」。白石がそうした文章を書くようになったのは、彼の生き方と深いかかわりがあるという。「白石は『折たく柴の記』の冒頭に、『むかしの人は、言うべきことははっきり言うが、そのほかは無用の口をきかず、言うべきことも、できるだけ少ないことばで意をつくした』といっているが、白石の文章の基本的態度はここにあるといってよい」。

そう指摘したうえで桑原は、白石の文章の一節をとりだし、それを同時代のほかの学者、この場合には室鳩巣の文章と比較している。二人の文章はどちらも、本田正信についての有名な逸話を取り上げたもので、書いてあることがらはほとんど同じと言ってよい。今で言えば、同一の場面を実見した二人のスポーツライターが、それをそれぞれ文章にしたものを、比較するようなものだ。

そこでこの二つの文章を読み比べて、桑原は白石の文章が簡潔的確であり、しかも余韻を多く含んでいることを改めて指摘する。しかして、白石の文章は、名文たり得ていると強調するのである。

「折たく柴の記」を読むと、わかりやすい和文で書かれた文章には、ある種の張りが認められる一方、無駄のない叙述が簡潔の美を感じさせる。そうしたところに桑原が魅力を感じたのは理解できる。もっとも、桑原のように、手放しでこれを賛美できるかどうかについては、異論もあるだろうが。

先に白石の古武士的な面について触れたが、それは古武士的な生き方についての白石の深い愛着と結びついていたと桑原は言う。「白石は、戦国時代をまだ遠く距たらない時代に生きていた。学問の心得などはさらにないが、戦場を馳駆するうちに体得、蓄積された武士の道はじゅうぶんに会得し、これには命をかけてそむくまいとした古武士たち、すなわち白石のいわゆる『むかし人』への深い愛着があった」

そんな白石が描く人物像は、決断、勇気、忍耐、禁欲、質素、寡黙、清潔、見切りなど、戦国武士の徳目だったと思われると桑原は言い、白石がいかに、古武士の精神を大事にしていたかを指摘する。桑原の指摘するそうした白石の武士道は、「葉隠」のそれとは全く違うと桑原は言い、「白石は、心理及び外見の観察に鋭敏な人間観察者ではあったが、あくまで正統朱子学に立つ合理主義者であって、『無分別』の賛美者ではけっしてなかった」とも言う。

学者としての白石の業績は、歴史の研究にもっともよく現われていると桑原は言う。「こんにち、明治以前の歴史家として日本最大のものが新井白石であったということを、否定する人はほとんどいないであろう」と言って、白石の歴史学者としての業績を高く評価するのである。そんな白石の歴史学の特徴はどんなところにあるか。それを桑原はいくつか指摘する。

まず、白石は歴史を連続的に発展する一つの全体としてとらえることに成功したと言う。歴史を年代記的な話の聞き書きから脱却させて、統一的な史観から俯瞰した、合理主義的歴史観ともいうべきものを白石は獲得していたということになる。

第二に、歴史に比較研究の方法を採用したことだと言う。琉球、朝鮮、中国などの文献を利用し、それとの比較で日本の歴史を浮かび上がらせようとした。これは白石以前にはなかったことで、彼以降も、明治までは見られなかったものだ。

第三に、白石はあらゆる神秘主義から脱却していたと言う。「古史通」を始めとした彼の古代史は、神代なるものを科学的、実証的に研究しようとした日本最初の書物であったといえようと言って、桑原は白石の歴史学の先駆性を強調する。

先駆性という点では、白石には西洋学の先駆者としての面もあると桑原は言う。徳川時代に花開いた蘭学を始めとする西洋学が、明治維新以降の日本の近代化の礎としての役割を果たしたとすれば、白石はその西洋学をいち早く取り入れて、自分の学問を形成していた。その意味で白石は、日本の近代化に大いに寄与したのだとさえ言ってよい。桑原はそんな白石について、「蘭学の先端に、すなわち日本における西洋学の始祖として、わが新井白石がいるのである」と強調するのである。

そんなわけであるから、明治に入るといちはやく、大槻如電らを中心にして「白石社」が結成され、白石の業績が紹介され、研究されるようになった。伊藤仁斎や本居宣長については、そのような動きがなかったわけだから、白石がいかに時代に先駆していたか、この一事からも推し量られると桑原は言うのである。






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