所有と労働と家:レヴィナス「全体性と無限」

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他者にせよ、<私>が~によって生きている始原的なものにせよ、それらは所有されえないものであった。だからレヴィナスには、所有の視点がないかといえば、そうではない。レヴィナスは「全体性と無限」のなかのかなり多くの部分を所有について費やし、所有が<私>つまり人間にとって持つ意味を考察している。

レヴィナスは所有の意義をどうとらえているか。<私>は所有しえぬ他者によって自分が生きていることの根拠を与えられ、所有しえぬ始原的なものを享受することで生きることの幸福を味わっている。しかし人間というものは、それだけでは完全な生き方は出来ぬものだ。そこに所有が入り込む理由がある。どうもそのように考えているようだ。レヴィナスは、所有を労働とか住まいとしての家に関連付けて論じており、それをエコノミーの問題だといっているが、この場合のエコノミーという言葉は、ギリシャ語の本来の意味、つまり家政という意味で使っている。家政とは、どのようにして家を維持・運営していくかについての議論である。人間というものは、家を基盤として生きるように出来ている。世界に向って、全く裸の状態では生きてはいけないのである。

所有は労働によって基礎づけられる。人は労働を通じて、なにものかを自分の所有するものとするのである。人が労働するのは、未来の不確かさに備えるためである。未来が確実に享受されつづけ、しかもその享受によって<私>の生が完全に満足されるのなら、なにも労働する必要はない。しかし、未来は不確かだし、その不確かな未来にあって<私>は困窮するかもしれない。それゆえ<私>は労働しなければならない。労働を通じて、ものを所有し、そのものによって未来を快適に生きるよう備えるのである。

レヴィナスはいう。「労働は、私が浸っている始原的なものから、ものたちを引き剥がす。その労働によって、持続する実体が発見される」と(「全体性と無限」熊野純彦訳、以下同じ)。つまり労働は、始原的なものをわたしのものとして所有させることで、ものは未来においても有用性が確立された恒常的なもの、つまり実体としての資格を得るのだ。実体であるから、それは堅固である。私はいつでもそれを享受することができる。

所有はまた、家によっても基礎づけられる。家はそれ自体が私の所有物であるが、同時に私が所有することとなった多くのものを保存する場でもあり、また、私がそこを基盤にして生きる場所でもある。レヴィナスによれば、人間は単身、しかも裸の状態で生きられるものではない。生きる基盤としての家をもたねばならないのである。人間というものは、家を基盤として世界に向かい合い、そこに他者を迎え入れ、またものを享受するようにできているのだ。

レヴィナスはいう。「世界への接近が生起するのは、住みかという非場所から出発して、空間を経めぐり、そこで本源的な把持をおこなう運動、把持し持ち運ぼうとする運動においてである。そこでは、始原的なものがはらむ不確かな未来が宙づりになる。始原的なものは家の四つの壁のあいだで固定され、所有のうちで静まりかえる。始原的なものは家のなかで、ものとしてあらわれる・・・始原的なものについてなされる、こうした把持こそが労働にほかならない」

<私>は家を住みかとし、つまり私の生存の基盤とし、そこから世界の空間を経めぐりながら、労働をする。労働の本質は手の働きにある。観想が目の働きを前提としているのに対して、労働は手の働きによってなりたっているのである。その手による把持の操作が、労働の本質である。把持を通じて<私>は、始原的なものを所有する。所有された始原的なものは、四つの壁に囲まれた家のなかで、ものとして現われる。それによってものは、始原的なもののもっていた不確かな未来という性格が宙づりにされるのである。つまり、ものは私によって完全に所有され、私の支配に属することになるわけである。

こうして所有されたものは、始原的なものとの直接的な関係からは区別されるが、いつでもそれを享受出来るという意味で、私によって真に所有されたことになる。その所有は、家によって根拠づけられる。なぜなら家こそが、始原的なものをわたしにとっての享受の対象としてのものに転化させるからである。レヴィナスは言う。「住みかをもたない存在には、だからそもそも労働することが不可能であることになるだろう」

このようにレヴィナスは、家を舞台とする労働と所有の関係を細かく解明してみせるのだが、その目的は、人間の生き方をこれによってあらわすことにあったのだろうと思う。レヴィナスによれば、人間とは、他者の問題をひとまずおいておけば、基本的には始原的なものを享受することで幸福を追求する存在である。しかしその幸福は、未来の不確かさによってそこなわれるかもしれない。それに備えるためには、労働によって始原的なものを所有し、未来の不確かさを宙づりにしなければならない。こうしてレヴィナスの所有論は、現在から未来にかけて、人間の生きる上での享受の幸福を確立することをめざした議論なのである。

所有ということでは、レヴィナスは、<私>が私自身の身体も所有できるというような言い方をしている。レヴィナスはいう。「身体が私の所有物であるのは、内部性と外部性との境界にある家のなかに、私の存在がとどまっていることによる。家という、領域を脱したありかたによってこそ、私の身体の所有そのものが条件づけられるのである」

つまり<私>の身体が私の所有物になるのは、<私>の身体が家と一体化するからだということらしい。私は家のなかに住まうのであるが、そのことで家は<私>の延長のように感じられる。その家は<私>の所有物である。その所有物と一体化した私の身体もまた私の所有物として生起する、というわけだろうか。

ともあれ、所有と労働をめぐるレヴィナスの議論は、次のような言葉に集約される。「諸価値への接近、使用、操作、製造は、所有にもとずいている。掌握し獲得し、わが家へと導く手にもとづいているのである」

ところで住みかとしての家は、ものを享受するための基盤であるとともに、他者を迎え入れる場所でもあった。他者は顔としてあらわれるわけだが、その顔は、レヴィナスによれば、とりあえず女性の形をとるだろうという。その女性を迎え入れるためには、わたしは裸であってはならず、やはり家を持たねばならない。家こそは、私が世界で生きていくうえでの、基本的な場所なのである。こうしたわけで、人間のあり方についての考察のなかに、家というものを持ち込んだことも、レヴィナスの非常にユニークなところだ。人間は家を介して世界と向き合うというわけである。






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