「ヒロシマ・ノート」と並べ論じられることの多い「沖縄ノート」を大江健三郎が書いたのは、1969年1月から1970年4月にかけてだ。この頃、アメリカのアジア政策に大きな変化がおこり、それを踏まえて佐藤・ニクソン会談が開かれ、沖縄の返還が具体的な日程にのぼりつつあった。ところがこの返還は無条件返還ではなく、米軍基地付きしかも核兵器つき返還だということがミエミエだった。そういう状況に対して、大江なりに抗議したというのが、このノートの性格である。大江は、このノートを通じて、沖縄の人たちの怒りを代弁しているわけである。その怒りは、「ヒロシマ・ノート」にみなぎっていた怒りよりも、強くかつ深い。
大江の怒りはとりあえず、米軍による沖縄支配やそれを許して来た日本の為政者に向けられるのだが、そう単純なものではない。自分自身もその一人である日本人全体にも向けられ、そのことのコロラリーとして自分自身にも向けられざるを得ない。その自分自身への怒りは、恥となって彼の自意識を苦しめるのだ。大江の日本人としての肖像恥は、日本人が沖縄の人たちに向けて来た差別のグロテスクさに根差している。その差別の例として大江はいくつかの事象を取り上げているが、そのなかには明治38年に大阪で催された勧業博覧会の会場で、沖縄の婦人二人が見世物としてさらされたこともある。その差別意識が、同時代の日本人にも生きていて、沖縄に生きている日本人に侮蔑的な態度をとらせている、と大江は告発するのだ。
この大江の告発を聞かされると、小生などは先日沖縄で起きたことを思い出す。それは、大阪府警の警察官がわざわざ沖縄まで出かけて行って、辺野古基地建設反対を叫んでいた沖縄の人たちに向って「土人」と罵ったものだったが、こういう理不尽といえる事柄に接すると、日本人の沖縄への差別意識の根深さを感じさせられる。しかも、これら二つの事例がいずれも大阪がらみというのが不可解だ。
沖縄は、大戦中は本土防衛のための捨て石にされ、敗戦後は人身御供のような形で米軍に差し出されたわけだが、そうした沖縄の人たちに対して本土の日本人たちはなんら良心の呵責を感じない。その顕著な例として大江は、大戦中慶良間諸島で起きた陰惨な事件を引き合いに出す。これは、渡嘉敷島の守備隊長が、現地の人々に集団自決を強要したというものだが、その守備隊長が、自分のしたことになんら良心の呵責を感じないばかりか、沖縄問題が「一段落」したオリをみはからい、渡嘉敷島を再訪しようとして、沖縄の人たちに阻止された。その時にこの元守備隊長は「何しに来たか」と聞かれて、「英霊に会いに来た」というようなことを言った。つまりこの元守備隊長は、自分が自決を強要した人々のことはなんら意識していないというのである。
こういう日本人を見るにつけても、大江は日本人の一人として恥を感じないわけにはいかない。それゆえ大江は、「日本人とは何か、このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえることはできないか」と考えざるを得ないのである。
こんな調子でこの書物は、至る所沖縄の人びとへの共感と、かれらを苦境に放置して恥じない本土の日本人への怒りに充ち満ちている。その怒りは激怒といってよい。何が大江をかくも激怒させるのか。大江自身が苦しめられているわけではない。苦しめられているのは沖縄の人なのだが、その沖縄の人たちの苦しみが、同じ人間としてしのびない。その忍びなさのよって来る所は、大江の想像力だと思うのだが、同じ人間でも想像力を持たない人間は、沖縄の人たちの苦しみと痛みを、自分の身に引き寄せて想像することができないのだろう。そういう人間たちに向って、何をいっても無駄かもしれない。そんな諦念のような感情も、この書物からは伝わって来る。
なお、この書物をめぐっては、大江が書物のなかで言及している渡嘉敷島の元守備隊長の遺族から、名誉棄損を理由に損害賠償と出版差し止めの訴訟が起こされ、その結果大江側が勝訴している。
大江先生の思いに共感です。
沖縄は本心では日本ではないと感じている人が多いのでは。
根本的な心情として、地方や田舎は、日本国・ひいては首都東京の犠牲になっても問題ない、と感じているのでは。
2020五輪で、事実上福島の復興が妨害され、福島に戻らないと、事実上のペナルティを課しているのですから。