熊野純彦「レヴィナス入門」

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熊野純彦の「レヴィナス入門」は、レヴィナスの三冊の書物、すなわち「存在することから存在するものへ」、「全体性と無限」、「存在するとは別の仕方で あるいは存在することの彼方へ」を取り上げながら、レヴィナスの思想の特徴とその偏移の様相をわかりやすく紹介している。わかりやすいと言っても、レヴィナスの思想そのものにかなりわかりにくいところがあるので、おのずと理解の限界はあるのだが。しかし、その難解なレヴィナスの思想の偏移を、わかりやすいフレーズを使って腑分けしているので、読んでいるものとしては、なんとなくわかったような気分になる。

「存在することから存在するものへ」は、その大部分を強制収容所のなかで書いたという。その頃のレヴィナスは、ハイデガーから深い影響を受けていて、ハイデガーの存在論を意識しながら、人間という存在者とその存在のあり方について深い思索をめぐらした。というのも、強制収容所という限界状況が、レヴィナスに否応なしに、深い思索を迫ったからだ。

その頃のレヴィナスの思想の特徴を単純化して言うと、「存在することから存在するものへ」という書物のタイトルが明示しているように、存在から存在者を導き出したということになろう。これはハイデガーのやり方を百八十度反転させたものである。ハイデガーは、存在者としての人間、それをハイデガーは現存在というわけだが、その現存在としての存在者である人間をきっかけにして、そこから抽象的な概念である存在の意義を導き出そうとした。つまりハイデガーは、存在者から駆けあがって存在へ至ろうとしたわけである。

ところがレヴィナスは、その正反対に、抽象的な概念である存在から、いわば下降するような形で人間に至ろうとしている。そう熊野は整理するのである。熊野はこれを次のようにわかりやすい言葉で表現する。「ごく単純にいえば、ハイデガーにおいて尋ねられていたものが、<私>から存在すのものへのみちゆきであるとすれば、レヴィナスが語りだそうとするのは、匿名の存在から<私>が誕生するみちすじである」

こういわれると、だれでもわかったような気になるから不思議だ。要するにレヴィナスは、ハイデガーとは反対に考えたということが伝わって来るのだ。もっとも、それだからと言って、つまりハイデガーと反対に考えたからと言って、そこから何が生じたかについて、明らかになるわけではない。それは、二つ目以降の書物にゆだねられるというわけであろう。

二つ目の書物「全体性と無限」、レヴィナスの第一の主著であると熊野は言っている。この書物は、西洋の哲学史の伝統のなかで、<他者>の問題を始めて本格的に取り上げたということになっているが、熊野も、その、<他者>の問題を中心にして、この書物の腑分けを行っている。

タイトルの<全体性と無限>とは、ひとつの対立を表現している。単純化して言えば、私と他者との対立である。私は有限な存在として、ひとつの全体性からなっている。ところが他者とは、その全体性に納まらない。なぜならそれは無限だから。したがって全体性としての私(有限な存在としての私)と、無限としての他者とは絶対的に対立する。他者は全体性としての私からは無限にこぼれ出てしまう存在なのだ。

このへんのことを熊野は次のように言っている。「『全体性(トタリテ)』をけっして形成することがないもの、<同>の内部に閉ざされることがない『無限なもの(アンフィニ)』こそが、<他者>なのではないか。その意味では、他者とは一箇の<外部性(エクステイリオリテ)>でもある。レヴィナスにあっては、かくして、他者とは無限、つまり取りつくしえないものであり、また外部性、すなわち<同>への還元を絶対的に拒絶するものである」

レヴィナスのこの他者論をハイデガーのそれと対比すると、そのユニークさがいっそう浮かび上がるだろう。ハイデガーも他者の問題を重視した。かれは他者を共同現存在という言葉で表現し、現存在としての人間にとって、決定的に重要な意義をもっていると主張した。その点では、デカルト以来の西洋哲学の伝統から大きく踏み出している。西洋哲学の伝統にあっては、他者とは私によって構成されるものに過ぎなかった。私の従属変数のような取り扱いを受けてきたわけだ。ところがハイデガーは、他者が私によって事後的に構成される受け身のものではなく、共同現存在として、わたしとともにすでにこの世界のうちに投げ出されているものとして捉えた。そのへんの捉え方は、たしかに画期的なものではある。しかしハイデガーの立論をよくよく分析すると、他者は私とともにこの世界に投げ出されてはいるが、その点では私と平等の位置づけを与えられるものであるが、しかし私を超えてとか、私の外部にあるとかまではいえない。あくまでも、私と同じレベルの存在としてある。そういう意味では、私の相関者であり、私が存在しないところでは、意味を持ちえない。ところがレヴィナスの他者は、どうも私が存在しないところでも存在するようである。私の外部に存在するとはそういうことだろう。それのみならずレヴィナスは、私が他者を構成するのではなく、私が他者によって制約されるともいっている。私が他者の根拠ではなく、他者が私の根拠であるということは、レヴィナスが他者という言葉で、特別のものを考えていたことを暗示するのではないか。そこに筆者などは神を連想するのだが、熊野はそこまではいっていない。

熊野は、レヴィナスの他者は、(私によって)構成されるのではなく、到来すると言っている。私の内部で、私によって構成されるのではなく、私の外部から到来するということに、注目するのである。熊野は言う、「他者は構成されない。他者をその他性において構成することはできない。とすれば、他者は到来する、と表現するほかはないのではないか。しかも超越論的領野の外部から、つまり世界の外部から到来する、と語る以外にないのではないだろうか」

レヴィナスの第二の主著「存在するとは別の仕方で あるいは存在することの彼方へ」は、デリダの批判をきっかけにして、考えを深めた結果書かれたものだという。デリダの批判とは、レヴィナスは他者を自己の外部から到来すると言っておきながら、結局は他者を存在として捉えている限り、ある種の存在論ではないのかというものであった。

この批判を受けてレヴィナスは、「存在するとは別の仕方で」自己と他者とを位置付け直そうとしたというわけである。その結果、「第二の主著にあっては、『自己』の同一性は『自己の外部』から到来する、とされるのだ」







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