表現の不自由展騒動が問いかけたもの

| コメント(0)
あいちトリエンナーレの一環として催された「表現の不自由展」が、脅迫や恫喝に屈する形で、主催者自ら中止したことをめぐって、さまざまな言説が流れている。それを分類すると、大きく二つにわかれる。ひとつは、表現の自由といえども自ずから限界があって、今回の催しはその限界を大きく逸脱していたのだから、中止になったことは当然だというもの。もう一つは、表現の自由は、憲法が保障する基本的人権の中でももっとも中核的なもので、いかなる事情があろうとも、これが踏みにじられることがあってはならない。今回の中止の事態は、その表現の自由を踏みにじったものといわねばならない、というものだ。この二つを両極端として、様々な言説がなされている。

小生はいまここで表現の自由とか不自由について云々するつもりはない。ただ気がかりに思ったのは、この騒動への主催者側の対応だ。主催者を代表する芸術監督は、政治家からの圧迫に屈したわけではなく、反対者からの抗議に、当事者であるスタッフや関係者たちが、大いに脅威を感じ、場合によっては直接暴力にさらされることを危惧して中止判断をしたのだと言っている。しかし、そういった事態は事前に予想されたことだ。もし予想していなかったとしたら、かなりな能天気と言ってよい。

今回の展示は、従軍慰安婦問題とか天皇についてのタブー意識に触れるものを含んでおり、右翼を始め国民のある部分から強烈な反発が起ることは十分予想できたはずだし、またきちんと予想すべきだったのだ。それをしないで漫然と行事を開始し、その挙句反対者からの脅威におびえるかたちで中止したとあったのでは、あまりにお粗末というほかはない。

こういう催しが、かなりな混乱を引き起こすと予想されるからには、それ相応の準備をして臨むべきだろう。たとえば、警察に相談するとか。警察が親身になって相談に乗ってくれるかは、また別の問題だが、今の日本では、理不尽な暴力から守ってくれる力を持っているのは、警察以外にはない。その警察が守ってくれないなら、自分で自分を守るほかはない。だいたい、右翼の反発が予想されるような場合には、だいたいが警察の保護を受けるか、自分らで覚悟して攻撃に対処するというのが、これまで普通に見られた光景だ。

今回は、あまりにも簡単に、反対者からの抗議と暴力的な脅迫に屈したことになる。それは反対者たちにとって成功体験として記憶されるだろう。そういう成功体験が積み重なれば、右翼的な勢力はますます増長することになる。類似の事態が起きた時には、躊躇なくそれをつぶしにかかるだろうし、またそういう圧力を恐れて、類似の行事について自主的な検閲が働くことにもなろう。そういう点で今回の騒動は、日本という国にとっての、不健全な未来を予想させるものだ。その不健全な未来の到来に、今回の主催者が一役果たしたということにならなければ幸いである。





コメントする

アーカイブ