ギリシャの神とキリスト教の神

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今日のヨーロッパ人の文化は、ギリシャ文化とキリスト教文化を二大源流にしていると言ってよい。この二つの文化はかなり異なったものだ。ギリシャ文化を担ったギリシャ人は、人種的にはガリア人に近いと言われているから、ガリア人が属しているヨーロッパ人種に共通した文化を体現していたと思われる。それに対してキリスト教文化のほうは、ユダヤ人の中から生まれてきたもので、ユダヤ文化と共通する部分が多い。ということは、今日のヨーロッパ人の文化は、ヨーロッパ固有の文化にユダヤ起源のキリスト教文化が重なることによって形成されたと言える。この二つの文化のうち、キリスト教文化のほうが圧倒的な影響力を持ったので、いわばヨーロッパ人がキリスト教文化に染まることで、今日のヨーロッパ文化を形成したと言える。

ヨーロッパ固有の文化は、その宗教意識に集約されるが、それはアニミズム的な色彩の強いものだった。アニミズムの特徴は、万物に神が宿っているというもので、従って多元的な神を戴いている。しかもその多元的な神は、この世界からは超越した存在とは考えられておらず、世界に内在して、人間たちと現世的な交わりを持つと考えられている。ギリシャ神話の神々が、人間と交わって多くの英雄が生まれたという話は、そうした神々の世界内在性を物語るものだ。これに対してキリスト教の神は、唯一神であり、しかもこの世界から超越した存在と考えられている。その超越神が、世界の外側から、世界を無から作ったとするのが、キリスト教の根本的な信仰の内容である。キリスト教の神が、超越ということを本質とすることから、ヨーロッパ人にとっては、超越は宗教の領域を超えて、哲学の領域においても最大のテーマとなってきたわけである。

その点、日本人の文化はかなり様相を異にしている。日本人も、本来的には古代のヨーロッパ人と同様のアニミズム信仰をもっており、それに接ぎ木する形で、仏教とか儒教を受容してきた歴史がある。したがって、ヨーロッパ同様の混合文化なわけだが、仏教にしろ儒教にしろ、唯一神の信仰を内実とするものではなかったので、ヨーロッパ人のようにアニミズムが唯一神信仰によって折伏されるというようなことは起こらなかった。日本人は、あいかわらず多元的な神々を信仰しながら、その多元的な神々として、日本古来の八百万の神々とか、大陸伝来の仏たちとかを礼拝してきたわけである。そこには、日本古来の神々と海外伝来の神々とが仲良く共存しているといううるわしい眺めが見られる。

これに対してヨーロッパでは、ヨーロッパ固有の伝統的な神々は、キリスト教の唯一神によって駆逐されてしまった。キリスト教が覇権を確立した中世以降、それまでは人間にとって身近でかつ慈悲深い神として観念されてきた神々は、悪魔や魔法使いに身をやつして、森の奥や山中深く潜航し、あわよくば人間をたぶらかしてやろうという邪悪な意図をもった化け物として観念されるようになった。これは日本にあてはめていえば、高天原にいた神々が、悪魔の姿に身をやつして森や湖の当たりを徘徊するようになったようなものである。日本では幸か不幸か、在来の神々にとってそういう残酷な事態は起こらなかったわけだが、ヨーロッパではそれが起ってしまったわけである。なぜ、そうなったのか。それはキリスト教の神が帯びている非寛容に根差しているようである。

ヨーロッパ古来の神や日本の八百万の神々と違って、キリスト教の神は嫉妬深いのである。キリスト教の神は、世界には唯一人自分しか神の資格を名乗れる者はいないと思っている。だから、人々が自分以外のものを神としてあがめるのを許しておけないのだ。人々もまた、キリスト教の神の愛を求めるあまり、神に見放されることを恐れている。キリスト教の信者にとって、神に見放されることは、死よりも恐ろしいのだ。人は死んでしまえば、神を持たない限りはそれきりであるが、神を持つ身で神に見放されれば、死後もまた呪われて生きていなければならない。キリスト教というのは、基本的には人間は死滅しないという信仰に立っている。人間は、肉体的には亡びても、魂としては生きていて、この世の終わりにあたって催される最後の審判を待っている状態に置かれると信じているのである。

そのキリスト教の神は、超越神だと言った。超越神というのは、先ほども触れたとおり、我々人間が現に生きているこの世界から超越しているという意味である。この世から超越しているばかりではなく、この世界を無から作ったものとして、創造神としての役割も果たしている。無から作ったとはどういうことか。とりあえずは何もないところに、有形のものを生み出したということだが、その有形のものを生み出した神自身は、どういう資格でそのような行為を行えたのか。神自身は、世界が作られる前から存在していて、その存在者としての資格で世界を作ったというのでなければつじつまが合うまい。しかし神がそもそもの始めから存在しているとすれば、完全な無というものはないということになる。完全な無とは、神を含めてないも存在しないという意味ではないのか。これは論理上の問題として避けられない疑問である。それゆえあの新井白石は、神がそもそもの始めから存在していたとするなら、なぜ世界も神同様に存在していたと考えられないのかという疑問を提起したのだった。

その疑問に対して敬虔なキリスト教徒は、そこが神の超越神たる所以だと答えるだろう。超越というのは、この世界からばかりではなく、あらゆるものから超越していることを意味する。その「あらゆる」という言葉には、論理も含まれている。神を疑うものは、論理を根拠にして疑うのであり、その論理が神の前では無意味だとすれば、その論理を用いて神の創造を否定することはできない。神は、およそ人間の頭に思い浮かぶであろうあらゆる理屈を超越した存在なのだ。それゆえ、人間的な理屈から神を云々することは、許されない涜神行為と思うべきである、ということになる。神を前にしては、人間は沈黙すべきなのだ。人間に求められているのは、神の前で語ることではなく、祈ることなのだ。

このようにキリスト教が唯一神に理屈を超えた権威を認めるのは、ユダヤ教やイスラム教と共通する特徴だ。この三つの宗教は、いづれもパレスチナを根本的な聖地とすることからわかるように、中東の砂漠地帯から生まれた信仰である。だから砂漠地帯に暮らす民の心性を強く反映しているのだと考えられる。中東の砂漠地帯に暮らして来た民は、家父長制の強い権威のもとに生きて来た。家父長制における家長のイメージがそのまま神として昇華したものが、これら三つの宗教における唯一神の原型なのだと思う。強い家父長制のもとでは、家のメンバーは無条件に家長に従わねばならない。家長の権威は理窟を超えたものなのであって、それに盾つくことは、家長の権威をゆるがし、それによって家の崩壊を誘い込むようなものだ。だから家のメンバーは家長に無条件に従うよう求められるのだし、また自分自身もその求めを内面化しているといえる。宗教とは、そうした考えが内面化したものなのであり、その内面化を通じて、人々を共通の絆に繋ぎ止める働きをするわけである。

唯一神を持たない日本人の信仰は、日本人の伝統的な生き方に根差しているのだと思う。日本には古来強力な家父長制が支配的だったという歴史はないようだ。むしろ母権の強さを感じさせる。日本人の究極の祖先としてあがめられている天照大神してからが、女神なのである。古代ギリシャにも女神はいて、人間を慈しみの眼で見守っていたわけだが、日本の女神は民族全体の祖先と思われるほど、強烈な思慕の対象だったわけだ。そういう国柄においては、理屈を超えた権威を体現した絶対的な家長のイメージは定着しにくかっただろうし、ましてやそうした家長像を昇華させた、絶対的な唯一神のイメージも生まれなかったのだと思う。そうした傾向は、仏教の故郷インドや、儒教の故郷支那においても、多かれ少なかれあったのではないか。支那などは、家父長制の強い伝統を感じさせないわけでもないが、やはり砂漠の民であるユダヤ人ほどには、家父長のイメージは強くないのだと思われる。





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