昭和天皇の敗戦後の言説

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初代宮内庁長官田島道治が残していた記録が公開された。それは「拝謁録」と総称される田島の私的なメモで、宮内庁長官に就任して以来五年あまりにわたり、昭和天皇とかわした会話の内容を詳細に記している。そこに何が書かれていたか、そういう問題意識に立って、NHKが二晩に渡って特集番組を組んだ。それを見たことで小生は、昭和天皇が自身の戦争責任をどのように考えていたか、認識を深めることができた。

田島が宮内庁長官に在任したのは昭和23年6月から同28年12月までの五年半である。その間に講和があり、昭和天皇は講和と独立を祝う演説をしている。その演説には、天皇の考えが一定程度盛られることになったが、それについては、紆余曲折があったとして、番組は天皇と田島とのやりとりを追っていた。

そのやりとりとは、自らの戦争責任を痛感していた昭和天皇が、その気持ちを率直に伝えたいということが主な内容となっていた。昭和天皇は、自分の気持を講和と独立を祝う演説の中に言葉として示したかったが、政治(吉田茂)の強い反対にあってあきらめ、自らの戦争責任には触れず、遠回しな言い方で戦争への反省を示すにとどまった、というような内容である。

昭和天皇の戦争責任へのこだわりは、何からきているのか。番組はあからさまには示していない。ただ、昭和天皇にそういう気持ちがあったことは、天皇が日本の国のあり方に深い責任感を抱いていたのだということを、番組が言いたかったのだということが伝わってくるだけである。

NHKだから仕方がないと思うが、この番組には、戦争責任をめぐる昭和天皇への批判的な視点は殆どない。ただ、「拝謁録」に書かれている内容を淡々と伝える姿勢に徹している。その場合に、昭和天皇に人間としての強い責任意識があったということを強調するのである。

昭和天皇は、自分の戦争責任を、天皇でありながら、阻止することができなかったことに求めた。そしてその理由を、当時の状況の中では、天皇といえども軍部の力を抑えることができなかったとした。そういう情況を天皇は下克上という言葉で表現している。下克上とは、下のもの(軍部)が、上(天皇)の言うことをきかない事態として、天皇は理解していたようである。軍部の独走をとめられなかったことが、戦争に走って行った原因であるが、それには自分としても、なしがたいことが多かったのだ。といって自分の責任が軽くなるものでもないが。しかし責められてばかりいるのは心外だ。そういう天皇の気持が伝わってくるように、番組の進行は編成されているようである。

天皇の、戦争責任に関する発言としては、「昭和天皇独白録」も一級資料となるものだが、この「拝謁録」は、天皇の言葉をじかに、しかも長期間にわたり、克明に記録している点で、資料としての価値は高い。この二つの資料からは、かなりな共通点が浮かび上がって来る。それは昭和天皇が、自分の戦争責任を強く自覚し、そのためにそれを追求されることを恐れていたらしいことだ。同時に、共産主義勢力への強い懸念やら、政治に関する高い意識を持っていたことも伝わって来る。そういう部分は、象徴天皇となってからも、旧憲法における最高権力者としての意識から抜け出せなかったことを物語っている、と番組からは伝わって来た。

先程もちょっと触れたが、NHKのやることなので、天皇への批判的な視点は表面化していない。その中でインタビューを受けた歴史家の吉田裕(「日本軍兵士」の著者)が、天皇の戦争責任が公然と議論されなかったのは、日本の将来に禍根を残したというようなことを、番組の中ではただ一人述べていた。





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