小生は、本を読むについて、それにあとがきが付されていれば、あとがきから読むのを習性にしているので、大江健三郎の新潮文庫版の小説「人生の親戚」についても、まずあとがきから読んだ次第だ。筆者は精神分析家として知られる河合隼雄で、次のような趣旨のことを書いていた。人生の親戚という題からは、まず漱石の道草を思い出した。道草の主人公は、縁が切れたと思っていた養父に思いがけず再会し、それ以来しつこく付きまとわれて嫌な思いをする。その嫌な思いを道草という小説は書いているのだが、その嫌な思いを道草の主人公は、人生の親戚である養父からあじわわされる。この道草の主人公と同様に、誰もが人生の親戚を持っているものだ。だいたいそんな趣旨のことを河合は書いていたので、それを読んだ小生は、大江のこの小説も、道草の主人公が持ったような人生の親戚をテーマにしているのかと思ったものだが、本文を読んで見ると、どうもそうではない。これは人生の親戚といったものではなく、一人の女性の人生そのものを描いているのである。
大江が女性を主人公にして小説を書くのはこれが初めてだ。もっとも女性の視点からではなく、女性の友人であるKという作家の視点から書かれている。Kとは大江自身のことだろう。そのKという作家が、障害のある子どもを通じて、ある女性と知り合いになる。その女性の子どもも障害を持っていて、Kの障害のある子どもと同じ養護学校に通っていたので、親同士の付き合いという形で、親しくなったのである。この女性は、一時人気を集めた漫画のキャラクター、ベティちゃんによく似ているということになっている。特に口元の印象がベティちゃんそっくりなのだ。そんなイメージからは、この女性に悩みがあるようには思えないが、実は彼女には誰にも理解できない、英語で言えばインテリジブルではない悩みを抱えて生きている。その生きざまを、Kという作家が横目で見ながら、彼女の悩みについて自分なりに考えるというような設定になっているのである。
その女性は、もともと天真爛漫な性格の人だったということになっている。その女性に不幸が訪れる。その不幸とは、彼女が二人の子供を同時に失ったことだ。彼女には障害のある子どもと、その健常な弟との二人の息子があったが、弟のほうも事故で下半身まひとなり、やはり障害者になってしまった。そんな二人の息子を、離婚した夫から引き取って、彼女は女手一つで育てていたのだったが、あるとき二人の息子が崖から身を投げて自殺してしまった。息子たちが何故自殺したのか、その理由が彼女にはよくわからない。母親である自分が原因なのかも知れない。あるいはそうではなく、別の理由があるのかもしれない。とにかく彼女にはわからないのだ。それが彼女には、心のトゲとなっていつも突き刺さっているのを感じる。小説は、そんな彼女が必死になって救いを求める様子を描くわけだが、神を信じることができない彼女には、どこに救いを求めたらいいのかがわからない。そして救いが得られたのかどうか、はっきりとはわからないままに、彼女の死によって小説は終るのである。
こんなわけでこの小説は、ある種救いのない世界を描いている。読んでいてやりきれないのは、彼女がかかわりあったキリスト教徒たちがみな究極的には神による救いを期待できるのに対して、彼女だけはそれを期待できないということだ。彼女は積極的な無神論者ではないが、神の存在を信じることができないし、ましてや神によって慰められることもできない。彼女はアメリカの女流作家フラナリー・オコナーを愛読しているということになっているが、オコナーはカトリック信者であり、神による救いを真心から信じることができた。しかし彼女自身は神を信じることができない。だから、本気でオコナーに感情移入することができなかったに違いない。つまり彼女は、心の危機に直面しながら、それを自分以外のものの差し伸べた手によって、救われる期待を持つことがないのだ。そうした寄る辺のなさといった感情が、彼女を滅入らせる。その彼女の滅入った感情を、作家のKが自分の内部に感情移入する形で、描いていくのである。
そんなわけだから、この小説には読者をはがゆくさせるところがある。一人の女性の悩みを描きながら、その悩みは、基本的には、彼女の親しい友人としての資格においてであれ、第三者の眼を通じて書かれているからだ。第三者の眼であるから、小説の語り手というのとも違う。語り手ではなく、第三者としての意見表明なのだ。そこには第三者としてのバイアスがかかっているだろうし、なにより伝聞に基づくという形をとっているから、女性の内面がストレートに伝わってくるようにはなっていない。そういう書き方にも、それなりの利点はあるのかもしれないが、この小説の場合には、そのことで女性の内面がよく伝わってこないきらいがある。だから小説を読み終わった後で、果たして彼女は本当に救われたのか、それが曖昧なままなのである。
大江は、初めて女性を主人公に据えるにあたって、女性の語り口で小説を進めていくことに難儀を感じたのかもしれない。そこでとりあえず、作家としての自分を語り手のような立場において、その自分の眼に映った女性の姿を書こうとしたのかもしれない。もっとも、Kが女性と一緒にいることはほとんどなく、外国にいる女性の動向を、女性自身から着た手紙とか、周辺の人物からもたらされた情報をもとに推測するばかりなのだ。だからKの語り方には、現実に裏付けられた切実さがない。そうした間接的な情報をもとに、Kは女性の内面を推測するのだが、その内面とは、一人の人間として納得できる生き方をしたうえで死んでいきたいというものだったに違いない。この女性は癌にかかり、それがもとで死んでいくのだが、その自分自身の運命を彼女はよく理解していたのだ。
死ぬ直前の彼女は、まわりから聖女と呼ばれるようになっていた。息子たちの死後、宗教的な団体とかかわるようになった彼女は、その団体とともにアメリカに行ったりして、なにかを得ようとしたようだったが、結局何も得られないまま単身メキシコへ行き、そこである農園にかかわることになる。その農園での彼女のひたむきな生き方が、周りの者たちを感動させ、彼女を聖女と呼ばせるようになるのだが、彼女自身に、聖女と呼ばれるにふさわしいような精神的な回心が起きたのか、そこは不明のまま小説は終るのである。小説を閉じるに先立って、大江は人生の親戚という言葉の意味について言及している。それは、彼女を主人公にした映画のタイトルとして彼女が提案したものだった。「農場のインディオや混血の女たちが、悲しいことに会うたびに発するのだという、"Parientes de la vida"ということばがふさわしいと思う」と彼女は言うのである。この言葉には、人性の親戚という意味の外に、悲しみという意味もあると大江はいって、自分としては、この女性の生き方には悲しみという言葉のほうがふさわしいと思う、と言っている。
こんなわけで、この小説は息子を失った母親の絶望を通じて、日本人の生き方に潜む危うさのようなものを描いているように映る。その危うさとは、神を持たないことから来る。神を持たない人間は、深刻な危機に直面したときに、神に救いを求めることができない。自分自身でそれを乗り超えねばならない。そのことの峻厳さを、この小説はテーマにしているように映るのである。
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