敗戦、日本の場合2:日本とドイツ

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第二次大戦で日本が被った人的被害は、ドイツのそれよりも詳細にわかっている。日本政府は1963年に戦没者を定義し、支那事変以降に戦争に関連して死亡した日本人としたうえで、その総数は310万人だったとしている。そのうち、軍人軍属は230万人、外地での一般邦人の戦没者30万人、内地での戦災死者50万人である。

また、1945年8月15日の時点で、海外にいた日本人の数は、660万人に上った。そのうち軍人軍属が353万人、一般人が300万人余りであった。一般人が多いのは、朝鮮、台湾、満州などの植民地(及び準植民地)、南洋諸島をはじめとした占領地、千島・樺太などソ連によって侵略された土地の住人などが多数含まれていたからである。日本政府はこれらの日本人の日本本土への帰還を支援したが、その帰還を、軍人軍属については復員、一般人については引き揚げと称した。そしてまず、軍人軍属の復員を優先して行い、ついで一般人の引き揚げを順次行っていった。その結果、1949年いっぱいまでに、ソ連によってシベリアに抑留された人々を除き、大部分の在外日本人が、本土へ帰還した。

帰還が遅れたのは、シベリアに抑留された旧軍人ばかりではない。ソ連は日本人の帰還には無関心な態度をとったといわれ、その結果満州在住の一般邦人の帰還も、台湾など他の地域に比べれば大幅に遅れた。遅れたばかりでなく、ソ連軍による略奪や殺害の対象になった日本人も多かった。葛根廟事件は、そうしたソ連軍による日本人虐殺を象徴する事件である。

物的損害についていえば、空襲による産業基盤の破壊が中心であるが、空襲の効果は点的なものにとどまり、鉄道をはじめとした巨大なインフラは、大部分がそのまま残されたと言ってよい。このインフラが機能していたおかげで、敗戦後スムーズな帰還が実現したともいえる。ドイツの場合には、大規模な地上戦が行われたほか、ソ連による東ドイツ地区からの工業施設の略奪が徹底して行われたために、日本に比べて、産業の荒廃の程度は激しかったと思われる。

とはいえ、それは程度問題で、日本もドイツ同様、焼け野原から戦後が始まったといってよい。日独共に、焼け野原から立ち上がって、戦後の目覚ましい復興をとげたのである。

その日本への占領政策であるが、日本にとって非常に幸運なことには、ドイツのように分割占領という形をとらず。事実上アメリカによる単独占領という形がとられた。それは、日本と死力を尽くして戦ったのがアメリカであったこと、もう一つの対日戦当事国である中国が、国民党と共産党との激しい対立を反映して、日本に対する占領政策を実施する余裕を持たなかったことの結果だと考えられる。スターリンは、北海道の東半分を占領したいと考えていたようだが、その野心はアメリカによってしりぞけられた。スターリンが対日参戦したのは、1945年の8月8日、つまり終戦の一週間前に過ぎず、日本軍がマヒした状態での参戦で、ソ連軍はほとんど損害を出さずにすんだ。そういう状態で、漁夫の利をつかもうとする露骨なやり方に、さすがのアメリカもお人よしではいられなかったのである。アメリカとしては、自分の血で贖いとった勝利の分け前を、狡猾な第三国に掠め取られるのを拒んだというかたちになった。それが結果として、日本に幸いした。もしスターリンの野心が実現して、北海道の東半分なりともソ連によって占領されていたら、沖縄問題以上に深刻な事態に、日本は直面することとなったにちがいない。

その、アメリカによる対日占領政策は、対日戦の最高司令官だったマッカーサーをトップとする軍政という形をとった、占領政策の司令部はGHQと呼ばれた。しかしGHQが直接統治したわけではなかった。日本政府を間に置いて、間接的に統治するというやり方をとった。それはドイツの場合と基本的に同じである。ただ、単一の軍政による統治という形をとったために、ドイツの場合よりもはるかに単純な形式をとることになった。また、ドイツの場合には、連邦制をとっていることの効果として、内政部分にかかわる大部分の権限を州政府がもっていたために、占領当局による間接統治は大部分が州政府を通して行われたのに対して、日本の場合には、強固な集権国家だったことを反映して、中央政府を通して、ストレートにしかも効果的に、占領政策を貫徹できるという利点があった。その中央政府は、時にはサボタージュをしたものの、基本的には占領当局への協力をおしまなかった。それゆえアメリカは、自らの国家意思を日本に押し付けることができた。憲法改正を頂点とする一連の戦後改革は、そのようにして実現されたのである。

戦後改革の明細については、別途触れることとしたいが、ここではとりあえず、アメリカが間接統治の担い手として選んだ日本人のことについて触れておきたい。ドイツでは、戦後まずナチス関係者のパージ(公職追放)が行われ、戦時中ナチスとの間に一線を置いていた人々を選んで公職に任命するという方法がとられた。それによってどれほど、政治の非ナチ化が図られたか、必ずしもあきらかではないが、少なくともナチスが復権するということは起こらず、西ドイツ部分については、西側諸国との政治的・経済的一体化が進んでいくことになった。それに対して東ドイツ部分は、急速な共産化とソ連への従属が進んだ。

日本についてもアメリカ占領当局は、日本の政治のいわゆる民主化をめざし、それにふさわしい人びとを統治の担い手に選ぼうとした。戦前・戦中に日本の軍国主義を担ったとみなされた人々が、広範に公職から追放され、それらに代わって新しい人びとが統治の任務についたわけだが、その人々がどれほど、民主主義に理解があったか、これもかならずしも明らかではない。しかしおおまかにいえば、アメリカの占領政策は、基本的には貫徹されたわけであるし、新たに統治を担った人々は、よく占領当局の期待に応えたのではないか。その占領政策も、冷戦が表面化するにしたがって、次第に性格を変えていき、いわゆる逆コースといった事態が生じたりするわけであるが、それも含めて戦後日本の政治は、アメリカの庇護を仰ぐという点では、首尾一貫していたと言えるのではないか。

戦後の占領下の統治を日独で比較すると、日本の方が間接統治が徹底しており、その分アメリカは統治の直接的わずらわしさから解放されていたのに対して、ドイツの場合には、占領軍によるコミットメントの程度が強く、その分、占領軍が統治の直接的わずらわしさにまき込まれる程度が強かったといえる。たとえば米英仏三か国の占領当局は、治安維持に直接の責任を負うこととなった。これは日本との大きな違いである。





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