語り手としての両性具有者

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大江健三郎の小説にはかならず語り手が出て来て、誰かに向って親しく語りかけるという形をとる。その誰かは、「同時代ゲーム」におけるように、同じ小説の登場人物ということもあるが、大体はその小説の読者である。語り手は、だいたいが男だったが、「静かな生活」で初めて女性を語り手にした。しかしその語り手は、大江の長女に設定されていたので、完全なかたちでの女性のナレーションションとは言えないところがあった。父親は自分の娘を女とはなかなか見ないものだ。

「燃え上がる緑の木」三部作の語り手は、両性具有者ということになっている。子どもの頃は男の子として育てられ、自分も男としてのアイデンティティを持っていたが、青年期の早い時期に、女性へと意識的に転換した、ということになっている。意識的に転換したわけだから、彼または彼女は、自分を女性としてアイデンティファイしているわけである。だから両性具有者といいながら、実際には女性としての立場から、この小説の語り手をつとめているということになる。大江は、ピュアな女性を語り手として小説を書く前に、こういう形で女性の語る物語を書いたわけだが、そこにどのような動機があったのか。

語り手が物語を語る気になったのは、この小説の中でK叔父さんとして出て来る人物に勧められたからということになっている。K叔父さんとは、大江健三郎の分身だ。その分身としての大江健三郎が、両性具有者としての語り手に、彼あるいは彼女の数奇な体験を語れと勧めたわけである。彼あるいは彼女の数奇な体験は、三人称で語るより一人称で語ったほうが迫真さが増すし、第一大江は、基本的には一人称でしか小説を書かない主義だから、数奇な体験者自身をして小説を語らせることを選んだのだと思われる。その数奇な体験者である彼あるいは彼女は、自分が物語を語る気になったいきさつを次のように書いている。

「私がいま書きはじめているのは、不偏不党の記録ではなく、しるしとして私自身に刻みこまれた物語だ。その物語の一部を自分の身に生きることで、私がついにはどのように自由になったかを書きたいと思う。もとより物語の中心には、新しいギー兄さんの不思議な受難とその乗り越えが位置するのであって、私はいくらか奇態なところのある役柄の、一脇役にすぎないけれど」

この文章には、これから語る物語にはギー兄さんが中心として位置していること、語り手である自分は、そのギー兄さんにとっての、「奇態なところのある役柄の一脇役」なのだということが含まれている。ギー兄さんをめぐる物語を別にすれば、私自身に奇態なところがあるというのがポイントで、その奇態であるとは、語り手が両性具有者であることを意味する。

この語り手は、子供の頃は男として自分をアイデンティファイし、青年期の早い頃に意識的に女に転換した。といっても、物理的な肉体改造をしたわけではない。肉体の状態はそのままで、心理的な構えを、男から女へとモードチェンジしたのである。自分をおとこおんな、あるいはおんなおとこと、時に自嘲する語り手の両性具有のあり方はどのようなものか。評者は、両性具有の実体に詳しいわけではないが、色々なパターンがあるらしい。男女両方の性徴を兼ね備えているものとか、外的性徴は男女どちらかに偏っていて、その反対の性徴が加わっている場合とか。この語り手の場合には、文脈からして、女性の性徴が優位的らしい。完全に断定はできないが、おそらく女性の外性器を持ちながら、陰核部分が異常に肥大してペニスのように見えるのではないか。そのペニスが、子供時代には目立って、男の子として遇されたようである。内性器としての子宮をもっていることは、後に妊娠することからわかる。

語り手は、女に転換することを決断した後では、実際に女として振る舞うようになる。それまでは男として振る舞っていたようだから、この転換はドラスティックなものだったといえる。そんな語り手を。ギー兄さんはじめ周囲の男たちは、女として受け入れ、セックスの相手までする。実際語り手は、ギー兄さんとセックスする一方、ザッカリーとのセックスも楽しむし、時には自分を売春婦の境遇に落として、見ず知らずだった男たちともセックスするのである。その中で、男としての立場でセックスしたこともあった。それは、鶏冠されることを好む男を相手に、その男の尻の穴に自分のペニス状器官をはめてやることだったが、この両性具有の語り手は、男として射精の快楽を感じることもできるのだ。それがどんなメカニズムによるのか、語り手は語っていないし、普通の読者が推測できることでもなかろう。

こういうわけだから、この小説には、かなり常軌を逸したところがある。シチュエーションとしては、かなり常軌を逸している。両性具有の特権を活用して、男女双方の立場に立って、性的快楽を追求するということになれば、サド顔負けのグロテスク小説が出来上がったことだろう。しかし、物語としては、そういうグロテクスさには走っていない。逆にかなり深刻な物語になっている。それは、語り手の語り口が、真剣そのものだからだ。その真剣さは、語り手のギー兄さんに対する敬愛の念から来ている。語り手はギー兄さんを、一人の異性として性的に恋慕するとともに、魂のことを大事にする宗教的な存在として、畏敬の念をも抱いているのである。

小説は、そんなギー兄さんと語り手とのかかわりを中心にして進んでいく。語り手が何故ギー兄さんに自分を捧げる気になったか、その動機を語ることから始め、そんなギー兄さんに信仰の揺らぎがあるのを見てがっかりした語り手が、ギー兄さんとの共同生活を脱して放浪のような生活を続け、その中で性的放縦にもふけるが、ちょっとしたきっかけでまたギー兄さんと一緒に暮らすようになり、最後にはギー兄さんが殺されるところを見る羽目になる、というふうに展開していく。ギー兄さんが殺されたのは、無駄な死を強要されたわけではなく、自分からその死を選んだということになっている。彼の死は、それ限りで終わってしまう孤立した出来事ではなく、次にあらわれるべき救い主に、彼の存在の意義が引き継がれるべきものとしての、大きな出来事の一部としての意義を持つものだった、ということになっている。そんなギー兄さんの生き方に、語り手は自分の魂が癒された気持ちになるのである。

こうして見るとこの小説は、ギー兄さんという宗教的存在を身近で見続けて来た信徒による福音書というような体裁にも見える。





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