死と宗教意識

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死の問題は宗教の領域と深いかかわりがある。宗教というものは、大きく二つの領域からなっている。一つは、自分が生きている世界がどのように生じ、何処へ向かっていくのかについての見方、いわば世界観ともいうべきことからなる領域だ。もう一つは、自分自身の存在についての疑問にかかわる領域、いわば死生観ともいうべきことからなる領域だ。死の問題は、死生観の中核をなす。

人類が初めて宗教的な意識を抱いたのは、人間は死すべき存在だと意識したからである。現生人類の直接の祖先たちは、ネアンデルタール人を含めて、埋葬文化をもっていたとされるが、埋葬とは死にかかわる文化である。人類だけが死者を埋葬する。それは人類だけが、死の意味に拘っていることを表わす。

死にも意味があると意識することは重要なことだ。死とはなにか、死ぬとはどういうことか。そういう問いは、人間だけが発する。ある種の動物にも、仲間の死を不思議がる現象は見られるが、死と正面から向き合い、その意味を深刻に受け止める動物は人間以外にはない。人間とは、死の意味について考えをめぐらす動物なのである。そうした死についての考えが、宗教的な意識を形成する。それゆえ、宗教は人類の誕生とともに古い事柄ともいえる。宗教的な意識は言葉によって表現されるから、言葉をもって死について語ることから、人類の歴史は始まったといってよい。聖書が、初めに言葉ありき、といっているのは、そうした事情を物語っているのだと思う。

聖書に言及したが、ユダヤ=キリスト教においては、世界は、人間を含めて、神が作ったものである。神が、無から世界を作ったと旧約聖書は言っている。その世界は有限なものとされる。有限とは、時間にこれをあてはめれば、始まりがあり、終わりがあるということだ。世界は有限の存在として、神によって無から作られたという始まりをもち、また一定の未来に終末を迎えるようにイメージされている。すなわち世界とは、神によって弄ばれるおもちゃのようなものといえなくもない。そのおもちゃの、人間は一つのパートということになる。有限なおもちゃのパートであるから、人間も有限だ。それは世界というおもちゃ同様に、作られた誕生の瞬間と、使い古されて消滅する瞬間とに挟まれた時間を生きている。前述したように、時間とは有限な存在に特有の現象なのだ。

死とは、ユダヤ=キリスト教にあっては、有限な存在としての人間が、神によって与えられた寿命が尽きることを意味する。寿命が尽きるとは、存在の期限が切れるということだ。それは哲学的には、存在から非存在への移行として捉えられる。存在しなくなること、存在の打消し、あるいは不在が、死の意味である。先に、苦痛とは存在への繋縛に由来するといったが、死はその繋縛からの開放でもある。死ぬことによって、人間はあらゆる苦痛から解放される。これを逆にいえば、死を覚悟した人間には、どんな苦痛も耐えられるということを意味する。それゆえジュリエットは、死を覚悟することで、自分の行為に勇気を奮い立たせることができたのだ。

存在しなくなることは、哲学的に表現すると、無に帰するとか、無化するとか、要するに無になるということだ。無とはなにか。それ自体大きな問題だが、とりあえずなにものでもないこと、なにもないこと、空虚であることなどがイメージされる。人間は死ぬことによって、空虚のなかに消え去ってしまい、もはやどんな形でも存在することをやめるのだろうか。そうだといえば、それはある種の哲学的主張に通じる。そうではなく、人間は死んだ後でも何らかの形で存在しつづけるといえば、それはある種の宗教的主張となる。ある種の宗教的主張のなかでも、ユダヤ=キリスト教は、人間が死ぬことによって失われるのは、つまり存在しなくなるのは肉体であって、霊魂は亡びることはないと主張する。ユダヤ=キリスト教の教えの核心は、その霊魂の救済ということにある。死んだ後に肉体から遊離した霊魂が、天国に迎えられること、それが宗教的な救済の核心をなす。

仏教の場合には、神が無から世界を作ったなどとは考えない。世界にはそもそも始まりなどというものはない。世界は永遠の昔からそこにあり続けたのであって、始まりもなければ終りもない。永遠に生成しているのだ。だからその中で生きている人間も、生まれたり死んだりといったプロセスを永遠に繰り返す。輪廻転生の思想は、そうした永遠のプロセスを論理的に表現したものだ。

仏教の死生観においては、人間は死ぬことで永遠に存在しなくなるのではなく、次の輪廻転生のプロセスに移行するための中間点の如きものとしてイメージされる。人間は死ぬことによって、次に生まれ変わるための助走をするというわけである。

こうした仏教の思想は、アジアの諸文化圏に共通しているようだ。ニーチェの永劫回帰の思想は、直接的にはゾロアスター教に触発されたとされるが、この永劫回帰は仏教の輪廻転生と極めて似ている。世界には始まりもなければ終りもない。それは永遠に続く生成のプロセスからなる。世界は生まれたのではなく、生成しているのである。その生成のなかで、同一物が永劫回帰する。なぜそうなるのか。永遠というのは気の遠くなるような時間をさしている。その永遠のなかで様々な出来事が継起するわけであるが、その出来事自体は無限ではありえない。ある限られた要素から形成されているはずだ。ニーチェはそう考え、そうだとすれば、同一のことがらが何度も繰り返されるに違いない、といい、それを同一物の永劫回帰という言葉で表現したのだ。

同一物が永劫に回帰するということは、事柄の継起には必然性はないということだ。あらゆる事柄は偶然の結果なのである。その偶然の結果として、過去にあったことと同じことがまた繰り返されるにすぎない。必然性は因果関係にともなう概念だが、偶然性はあらゆる因果関係から自由である。それはたまたま起きた。人間の存在も同様である。それはたまたまこの世に生まれて来た。生まれてきたのが偶然の結果なのであるから、その命には必然的な理由などはない。したがってそれが消えることにも必然的な理由はない。あえてあるとすれば、人間を含めた存在者は、有限の存在に縛られているとことになる。人間が有限な存在であることも、たまたまそうであるにすぎない。つまり偶然のことなのである。

こういうと、世界に始まりがあったことは、科学的に実証されているという反論があるかもしれない。ビッグバン理論によれば、この宇宙は百数十億年前に起きたビッグバンと呼ばれる現象の結果生じたということにされている。この考えは、ハッブルの発見した宇宙の膨張現象をもとに生み出されたもので、人間の認識能力を前提とすれば、合理的に出来ている仮説ではあるが、この世には、人間の認識能力を超えた事柄があるかもしれない。だいたい人間の認識能力は、わずかこの一万年の間に進化したものにすぎない。その一万年のスケールをもってすれば、百数十億年という時間軸は、人間の想像力を超えるものだ。それはほとんど永遠といってもよい。

死の問題に戻ろう。どんな宗教にあっても、死は中核的な問題領域であって、死を軽視する宗教はほとんどない。それでも、ユダヤ=キリスト教のように、死に深刻な意味を与えたがる宗教と、仏教のように、死をあまり深刻に考えない宗教との相違はある。その相違は、世界観と深いかかわりがある。ユダヤ=キリスト教のように、世界全体に必然性を求めたがる考え方に立てば、人間の存在にもなにがしかの意味を与えたくなるものだし、したがって非存在への移行としての死にも重大な意味を認めねばならない。ところが仏教などのアジア的な考え方にたてば、世界というものは、その中で生きている人間も含め、偶然に生成しているものだということになり、したがって人間の存在と不在についてあれこれと思い悩むのは不毛なことだということになる。仏教が目ざしているのは、存在に拘ることではなく、あらゆる存在のあり方から解放されることなのである。その解放されての安らぎの境地を、仏教では涅槃と呼ぶ。涅槃と天国とはかなり異なったイメージだ。涅槃とは存在からの開放であるのに対し、天国は究極の存在を保証してくれるところなのだ。





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