暴力について

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死と苦痛は暴力と深いかかわりがある。この三者が最も深く結びつくのは戦争においてである。戦争は暴力そのものの爆発といえる。戦争においては正義や理性がないがしろにされるとレヴィナスはいったが、まさに戦争こそは暴力の爆発として、人間性を踏みにじるのだ。正義とか理性といったものはその人間性を土台にしている。それが根こそぎにされるわけだから、正義とか理性などというものは、暴力の前では無力なのだ。

暴力は、ある意味人間性に根差した事象なので、おそらく人間の歴史と同じくらい古い。だから文学作品のなかでも古くから描かれて来た。戦争には暴力がつきものだし、その戦争は文学作品の大きなテーマだったからだ。戦争以外でも暴力が振るわれるケースはある。たとえば権力闘争だ。シェイクスピアの史劇「リチャード三世」は、この権力闘争に伴う暴力をテーマにしたものだが、そこに描かれた暴力は、権力を獲得・維持する便法として位置付けられていた。暴力は、それを振るうための目的に従属しているわけで、暴力を振るうこと自体が目的であるのではない。

大部分の暴力はそうであろう。まともな人間なら、暴力を振るうことが面白くて、暴力を振るうことで得られる快楽を目的に、暴力を振るったりはしない。しかし、なかには暴力を振るうことそのものが自己目的化するようなケースもある。戦争がそうだ。戦争は、敵を屈服させて自分の安全を確保することが究極の目的とされるが、その目的が暴力を通じて追及されるうちに、暴力の行使自体が自己目的化する。第一次世界大戦においては、そのような自己目的化された暴力が、人類にとっての深刻な問題として浮かび上がった。また第二次世界大戦においては、暴力の規模は想像を絶するものとなり、またある民族を対象にしたホロコーストのような、究極の暴力も振るわれた。二十世紀は暴力をめぐる議論が異常に高まった時期だが、それは度重なる世界大戦における暴力の蔓延とその深刻化といった自体を背景にしていたわけである。

暴力が学問的な関心の対象となると、暴力の起源とかその様相といったものが、綿密に分析される。また、文学作品における暴力の描写にも、新しい傾向が現われる。筆者がこれまで読んだ文学作品のなかで、暴力をもっともなまなましく描いたのは、村上春樹の長編小説「ねじまき鳥クロニクル」であった。この小説の中では、日本人のスパイがロシア人の命令を受けた蒙古人によって、生きたまま皮を剥がれるシーンが出て来る。その描写は迫真なもので、読んでいて吐き気を催すほどである。また、日本人が中国人をバットで殴り殺す場面が出て来るが、それを読むと一気に血圧があがるのを自覚する。それらの描写が、読者にそのような反応を呼び起こすのは、そこで振るわれる暴力が、ある意味人間的な色彩を帯びているからだろう。人間的なというわけは、人間の手を通じて、それらの暴力が振るわれるという意味だ。機械を介した暴力、例えば空襲による殺害といった暴力では、このように強い情動を呼び起こすことはない。

人間的な暴力という言い方をしたが、そこには暴力がひとつの快楽となっていることが含意されている。暴力は、ある目的のための手段として振るわれるのではなく、快楽の源泉として振るわれる。つまり自己目的化しているわけである。そのような暴力は、暴力を振るうこと自体に暴力の推進力があるので、暴力を振るう人は、そこにある種のエクスタシーを感じ取るに違いない。そのようなエクスタシーにも人間性の一端を認めることはできる。何故なら地球上の生き物の中で、自己目的化した暴力を振るうものは人間以外にはいないからだ。暴力はその意味で、きわめて人間的な事象なのである。

暴力は人間性に根差しているという議論は、コンラート・ローレンツの暴力論から始まった。ローレンツは、野生動物の世界における暴力の現象を研究することから始めたのだが、そのうち、真の意味で暴力といえるものは、人間に固有な暴力だと思うようになった。人間だけが、暴力のための暴力を振るうのであるし、一部の人間には暴力に快楽を感じるものもある。

快楽を伴なう暴力としては、拷問がその典型だろう。拷問が快楽と不可分なのは、それが拷問を受ける人間の意思の支配を目的としているからだ。拷問は単に相手の身体を支配することを目的としているわけではない。相手の意思を支配して、屈服させることを目的としている。つまり一人の人間の精神を支配することが、拷問の目的なのである。そのような支配は、支配する者に深い満足感をもたらすであろう。何故なら、拷問するものは、相手の意思を支配することを通じて、自分の行為が有効であったことを確認し、そこに満足感を持つのであるし、そうした満足感はすなわち快楽に通じるからだ。

しかし、人間の意思を支配し、その人間を自分の思いのままにすることは、そう簡単なことではない。人間を自分の思い通りに支配するという関係は、主人と奴隷との関係に似ている。その主人と奴隷との関係を、人間関係の基本として位置付けたのはヘーゲルだった。ヘーゲルは、主人と奴隷との間の関係は、一方的なものではなく、反転可能な相互的なものだとした。主人が奴隷を自分に服させるためには、奴隷の自由な意思が前提となる。いやいやながらの服従は真の服従とは言えない。服従は自発的でなければ意味がない。しかし自発的な服従とは、奴隷に自由な意思を認めることである。主人は、自分が主人であることの根拠を、奴隷の自由な意思に拠っている。つまり主人が主人であることができるのは、奴隷が自分を主人と認めるかぎりであり、その限りで主人は奴隷に自分の根拠を負っているわけである。主人と奴隷との関係の反転とはそういうことであった。

サルトルは、ヘーゲルのこうした議論を受け継いで、人間関係の原型は相克にあるとした。この相克を通じて、わたしは他者を構成するのである。他者は私の存在を制約するものなのだ。

レヴィナスは、ヘーゲルの議論を別な形で展開する。ヘーゲルの場合には、主人と奴隷との間での関係の反転が議論の中核をなしていたが、レヴィナスは、拷問を受ける者の意思の自由に力点を置いた議論を展開した。拷問は拷問を受ける者の意思の自由を前提としていた。なぜなら、拷問による自白には自主性が求められるからだ。その自主性は、拷問を受ける人間に根差している。また、拷問は、拷問を受ける者を簡単に殺してしまっては、成り立たない。生かしておいたうえで、相手に苦痛を与えるというのが拷問の本質なのだ。ということは、拷問は、死を先延ばしにしているかぎりにおいて、相手の意思の自由を尊重するという構造になっている。だから、拷問を受けるものには、全く自由がないということではない。その自由を、拷問を受ける者は、自分の精神の自立に役立てることができる。人間というものは、精神的な存在である限り、完全に支配されることはないのだし、また、支配できる性格のものでもないのである。

こういうレヴィナスの議論は、おそらくナチスによる拷問で死んでいった同胞たちの魂を慰めることが動機だったのかもしれない。そうでもして、死んでいった同胞たちの魂を慰めてやらねば、彼らは犬のように死んでいったことになる。いや、かれらは犬のように死んでいったわけではない。人間としての尊厳を保ちながら死んでいったのだ。そうレヴィナスは言ってやりたかったのだろうと思う。





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