東電経営陣無罪判決に寄せて

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福島原発事故の責任をめぐって強制起訴された東電の旧経営陣三人に対して、東京地裁で無罪判決が出た。これまでの経緯を踏まえれば、無罪判決が出ることは十分に予想されたことだが、小生はその理由に吃驚させられた。判決理由は、刑事責任をめぐる伝統的な解釈を踏まえたものというよりは、それを大きく逸脱して、これまでの刑事責任論を根本から覆すようなものだといえる。いわば犯罪者に御墨つきを与え、今後同種のことがらについては、責任逃れの方途を広くしてやったようなものだといえるのである。

刑事司法の伝統的なあり方を踏まえれば、今回の裁判は、津波の発生について十分に予測していたか、もし予測していたとするなら、それに対する十分な備えをしていたか、この二点が焦点になるはずだった。実際焦点にもなったのだが、判決はそれ以外の事情のほうを重く見て、無罪判決の結果を導いている。

刑事司法の伝統からすれば、この裁判で被告たちが無罪になるためには、被告たちが津波の発生を十分には予測できなかった、したがって、あるいはそれに付随して、津波に対する十分な備えもできなかった、ということを証明できればよいことになる。しかし、これまでの経緯からすれば、被告たちには津波の発生を予測していたという十分な証拠があるようだし、それにもかかわらず危険防止のための対策を怠って来たのではないかとの疑念も強い。だから、刑事司法の伝統を踏まえれば、被告たちが有罪になる可能性は高かったといわねばならない。

こういう情況のもとで、東京地裁は被告たちを無罪にしてやった。それについては、刑事司法の伝統から多少逸脱するのは仕方がない、といった裁判官の判断があったのではないか。どうもそんなふうにも勘繰られる。

裁判官の提示した理由とは次のようなものである。被告たちが津波を予測するための根拠は国の「長期評価」であるが、これには信頼性に疑いがある。したがって被告たちは、津波の発生を予測するための前提がないと同然である。また、事故前の法規制は、絶対的な安全確保までは要請していない。そうした枠組みのなかでは、被告たちに刑事責任を問うことはできない。判決は更に、当時は東電ばかりでなく、政府を含めて誰もが安全対策を積極的に求めなかった。当時は、原発の社会的必要性について考慮するあまり、安全が顧みられない傾向があった。そういう傾向のなかで、被告たちだけに刑事責任を課すのはフェアではない、とも言っている。

要するに、当時は原発の安全性についての、社会的な合意ができていなかったのだから、被告たちに安全軽視を理由に刑事責任を課すのは問題だ、というような裁判官の判断が伝わって来る。

こういう判断が、判例として定着すれば、今後原発はもとより、あらゆる分野で責任者の無責任化、あるいは責任解除の動きが強まっていくだろう。安全のために原発を規制しようという議論は脇へしりぞけられ、原発は国として必要なのだから、多少の不利益あるいは危険は我慢して、今後も原発を継続していこう、というような主張が勢いを得ることになりかねない。なお、被告たちは、判決後の記者会見で、社会に対して迷惑をかけたと言った。迷惑をかけたと言ってお詫びすべきなのは、抽象的な「社会」などではなく、原発事故で塗炭の苦しみをなめさせられた被害者たちではないか。

原告である指定弁護人は、以上のことを十分に認識して、控訴の手続きを踏むべきだ。





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