ソクラテスの弁明その二

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弁明を始めるに先立ちソクラテスは、自分が弁明すべき相手は二通りあると言う。一つは今回自分を訴求したアニュトス一派だが、そのほかにもう一つ、「すでに早くから、多年にわたって」自分を訴えている連中だ。その連中は、もっと手ごわい連中であって、「諸君の大多数を、子供のうちから、手中にまるめこんで、ソクラテスというやつがいるけれども、これは空中のことを思案したり、地下の一切をしらべあげたり、弱い議論を強弁したりする、一種妙な知恵をもっているやつなのだという、何ひとつ本当のこともない話を、しきりにして聞かせて、わたしのことを讒訴」していたのだという。

この連中はアニュトス一派より手ごわいのだが、困ったことにその連中の名前さえも、「ちょうどひとりある喜劇作者がいるということを除いては、それを知ることも、口にすることもできない・・・これに弁明をするというのは、何のことはない、まるで自分の影と戦うような」ものなのである。ここでソクラテスの言及している喜劇作者とは、自分の作品の中でソクラテスを嘲笑したアリストパネスをさしているのだろう。そのアリストパネスが代表しているようなソクラテスへの訴えとその背景にある偏見を取り除かないことには、問題は抜本的に解決できない。なぜならアニュトス一派の訴求は、そうした手ごわい偏見を背景にしているからだ。だから自分は、アニュトスに反論する前に、そうした古くからある手ごわい訴えに対して弁明することから始めたい、そうソクラテスは言うわけなのだ。

訴訟手続きについての現代の常識からすれば、被告は原告の主張にストレートに反論すればよく、それ以外のことを言明するのは、むしろ不利に働く場合が多いのであるが、ソクラテスは、原告の主張にストレートに反論するに先立って、訴訟外のことがらについてまず弁明をしたいと言う。これは、ソクラテスが、単に訴訟に勝つことだけを目的にしているのではなく、自分の生き方について、アテネの市民にわかってもらいたいと思っているからだろう。法廷で、訴訟以外のことについて自分の意見を述べ、世間に向って自己の思想を宣伝するということは、日本の近代史上でもよくあったことだ。ソクラテスは、それと同じことを、二千年も前に、アテネにおいて行っていたわけだ。

もっともソクラテスの場合には、自分への直接の訴求理由と、古くからある手ごわい偏見とは、その内容はほとんど同じである。それは、先述したとおりのものであるが、改めていうと次のようなものである。「ソクラテスは犯罪者である、かれは天上地下のことを探求し、弱論を強弁するなど、いらざるふるまいをなし、かつこの同じことを、他人にも教えている」

これに対してソクラテスは、一々反論していくのである。まず、自分は、他の弁論家のように、弁論術を教えることで報酬を得てはいない。だから自分を弁論家とか教育者と同じように見なすのは当たらない。第一自分には、訴えが言っているような、人々をたぶらかすような知識の持ち合わせはないのだ。では何故、そういう見方が広まったのか。

それについては、自分なりに心当たりがある。「わたしがこの名前を得ているのは、とにかく、あるひとつの知恵をもっているからだということには、まちがいないのです。するとそれはいったい、どう言う種類の智慧なのでしょうか」。ソクラテスはそう言って、自分のもっている智慧について語るのだ。

その智慧については、デルポイの神の証言が得られるだろう。そうソクラテスは言って、友人のカイレポンを通じて聞いたという、デルポイの巫女の言葉を紹介する。カイレポンはデルポイの巫女に向って、ソクラテスより智慧のある者がいるかどうか尋ねたところ、デルポイの巫女は誰もいないと答えた。巫女の言葉は神の言葉であるから、自分はデルポイの神から、誰よりも智慧のある人間だと認められたわけだ。だが、そう言うことで神は何を意味しているのだろう。自分に智慧がないことは、自分自身も言っているとおりである。にも拘わらずその自分が、最も智慧のある者だと神は言う。その意味を色々考えたソクラテスは、次のような結論に至った。それはわたしが、自分の無知を知っていることで、その分ほかの人びとより智慧があるからではないか。他の人びとは、自分に知恵がないばかりか、その智慧がないこと自体も知らない。それに比べて自分は、自分の無知を知っているだけ、他の人びとより智慧がある、ということに違いない。

そこでソクラテスは、自分には智慧があると思っている多くの人々のもとへ行って、その人たちと自分と、どちらが智慧があるか、実際に試してみた。まず政治家たちの所へ行った。かれらは、他の人から智慧のある人物と思われ、自分自身もそう思い込んでいるが、実際はそうではなかった。そこで彼らが無知であることを指摘してやったうえで、かれらより自分のほうが、自分の無知を知っている分だけ智慧があると納得した。同じようなことを、悲劇とかディテュランボスの作者や手に技能を持つ人についても試してみたが、いずれも結果は同じだった。そこで自分は、自分の無知を知っている分だけ、他の人びとよりも智慧があると納得し、また他の人びとには彼らの無知を指摘してやった。しかしそれが彼らの気に障り、私が彼らに憎まれる原因になったようだ。

以上でソクラテスが言いたかったことは、彼が他の人よりも智慧があるということを強調することではなく、かえって、彼自身も含めて、人間の知恵があさはかだと指摘することだったようだ。「人間たちよ、お前たちのうちで、いちばん智慧のある者というのは、誰でもソクラテスのように、自分は智慧に対しては、実際は何の値打ちもないものだということを知った者が、それなのだと、言おうとしているようなものです」というのが、ソクラテスの言いたいことだったのであろう。

ともあれソクラテスは、そういう考えから、自分を智慧のあるものと思い込んでいる人があると、その人の所に出かけて行って、その間違った思い込みを正してやるのが、自分の神から与えられたつとめであると考えて、それを実行した。また、ソクラテスから感化された弟子たちも、ソクラテスに倣って、自分を知者と思い込んでいる人々に恥をかかせ、またそのことで憎まれることになった。ソクラテスに向けられている憎しみとか、それにもとづく訴求には、こうした背景があるのだ。

「メレトスが、わたしに攻撃を加えたのも、アニュトスやリュコンがそうしたのも、こういうことがもとなのでした。メレトスは作家を代表し、アニュトスは手工業者と政治家のために、リュコンは弁論家の立場からわたしを憎んでいるのです」とソクラテスは言い、「そんなことをするからこそ、にくまれるものだということも、知らないわけでは」ないが、しかしそれが神から与えられた務めだと思えば、憎まれながらもやめるわけにはいかないし、やめるのは神への反逆になるだろう、とソクラテスは言いたげである。そう言うことで、神への信仰深きアテネの市民に訴えかけようというのであろう。






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