大江健三郎と宗教:燃え上がる緑の木

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「燃え上がる緑の木」の実質的な主人公はギー兄さんである。そのギー兄さんは、宗教的な人間として描かれている。もっとも本人の意識には、自分はたしかに魂のことに打ち込んでいるが、それは必ずしも常識的な意味での宗教ではない、という思いが強い。しかしそんな本人の思惑とは離れたところで、彼を宗教指導者として仰ぐ人々が集まって来て、それが宗教団体のような様相を呈していく。語り手であるさっちゃんという女性は、そうした動きを脇に見ながら、自分の恋人でもあるギー兄さんの気持に寄り添うのだが、さっちゃんの場合には、ギー兄さんを宗教指導者としてではなく、魂のことに悩む一人の人間として見ているところもある。しかし、ギー兄さんの起こす奇跡の数々を、やや感情を込めて書くところなどは、キリストの事跡を福音書という形で書いた、あの使徒たちを思わせる。この長大な小説は、或る意味、一人の宗教指導者の事跡を、福音書風に伝えているものと言えなくもない。


ギー兄さんという人物像には先行モデルがある。「なつかしい年への手紙」に出て来たギー兄さんである。そのギー兄さんは、小説の語り手である大江健三郎の分身にとって、精神的な指導者として描かれていた。このギー兄さんも、周囲の青年たちを組織したりして、ある種の運動の指導者となるのだが、彼のそうした情念を駆り立てているのは、宗教的なものではなかった。では何か、というと、明確に答えられるようなものは見当たらない。大江は、「万延元年のフットボール」で早くも、世の中へ異議申し立てする人物像を描いていたわけだが、そこでも、なぜ彼らが異議申し立てするのか、その動機はかならずしも明確に描かれていたわけではなかった。だから、大江の読者は、大江の異議申し立てには明確で納得できる対象がないのではないかと、いぶかしい気分に陥ったりもするわけである。

「なつかしい年への手紙」に出て来たギー兄さんも、彼を憎む人々によって殺されてしまったのだったが、その人々がギー兄さんを殺した理由は世俗的なものだった。かれらはギー兄さんによって、自分たちの生活の安全が脅かされると危惧し、なかば正当防衛的にギー兄さんを殺したのだ。それに対して、この小説の中のギー兄さんは、宗教的なことから迫害をうけ、その延長線上で殺される。ギー兄さんを殺したのは、「なつかしい年への手紙」におけるような、山の中に住んでいる人々ではなく、昔ギー兄さんが対立関係にあった革命党派の生き残りということになっているが、その殺し方というのが、山の中の人びとによるギー兄さんへのリンチに紛れるというものだった。だからギー兄さんは、山の中の人びとによるリンチによって殺されたと言ってもよい。山の中の人びとに、そこまでギー兄さんを憎ませたのは、ギー兄さんの宗教的な振舞いに反発を感じたからだった。言い換えれば、ギー兄さんは自分の宗教的な理想に殉教したということになっているわけだ。

しかしギー兄さん自身には、自分を宗教指導者として自覚するところは弱い。かれはあくまでも、個人的な魂のことに傾倒しているのであって、人々を救うために活動しているわけではないという思いがある。だから、自分を囲む宗教運動が大きなうねりを見せるようになると、みずからその運動から身を引いて、一人の巡礼者として生きようと決意するのだ。もっとも、そう思っただけで、巡礼に出る前に殺されてしまうのだが。その殺され方のくだりを読んでいると、迫害に耐えるキリストの姿を彷彿させる。ギー兄さんは、自分の意識においては魂のことに悩む一人の人間に過ぎないが、人々の目にはキリストの再来のように映るのである。

ギー兄さんが、人々の目にキリストの再来として映るのは、ギー兄さんがたびたび奇跡を起こすからだ。その奇跡はギー兄さんの意識を超えたものだ。つまり、ギー兄さんは奇跡を起こそうとして、その結果を実現するわけではなく、自分の意思に反して、奇跡が勝手に起こるのだ。しかし奇跡が起きて見ると、もしかして自分にはそういう能力が備わっているのではないかと、思うようにもなる。かれは、いわば恐る恐る、奇跡の行為を繰り返すのだが、それが成功する場合もあるし、そうはならない場合もある。そうはならない場合には、人々から詐欺師呼ばわりされるし、成功したと思われる場合には、奇跡を受けた人々から、キリストのようにあがめられる。この奇跡と迫害の部分は、多くの宗教運動につきものの事態だ。

こういう部分を読むと、大江はやはり、この小説で宗教運動をテーマに盛り込んでいるとの印象を受ける。この小説の中の宗教運動は、教祖としてのギー兄さんの個人的な思いを超えて、自律的に広がっていく。ギー兄さんの宗教的権威に乗ったかたちで、自分の思いを追求しようとする勢力も現われる。そういう勢力がいくつか現われると、相互の間で対立が生まれたりもする。そういう対立を、教祖に担ぎ上げられたギー兄さんは制御できない。そこまでいくと、かれを中心とした宗教運動は、かれの思惑を超えた、自立した運動に成長してしまうのだ。これは歴史上の宗教運動に多く見られることで、大江はそうした歴史を十分に研究したうえで、この小説を書いたのだと思う。それは、一応宗教的なことがらをテーマに選んだ手前、最低限しておくべき作業だと思ったからだろう。

ここで、もとへもどると、ギー兄さんは自分を宗教的な人間と考えているよりは、魂のことに悩む人間だと自覚している。その悩み方に宗教的なところがあるので、かれのまわりの人びとは、ギー兄さんによって、宗教的に感化されてしまうわけだ。だがギー兄さん自身には、他人を宗教的に感化するつもりはない。かれは自分自身にこだわっているだけであって、その自分のこだわりに他人も外からかかわって来る。そうした動きを意識的に避けるわけでもないので、ギー兄さんはかれに心服する人々によって教祖としてまつりあげられるわけだが、ギー兄さん自身にとって、それはむしろ不本意なことだ。かれにとって喫緊の課題は、自分の魂の問題なのだ。

そういうわけでこの小説は、宗教をめぐる葛藤を描いているともいえるし、そうではないともいえる。つまり、ギー兄さんのいう魂のこととは、かならずしも宗教の問題とは言えない部分があるということだろう。こうした中途半端さは、宗教に対する大江自身の姿勢から来ているのだと思う。大江は、自分は宗教的な人間ではないと、いろいろな所で述べている。むしろ無宗教の人間だと言っている。無神論者と言い換えてもいい。しかし、無宗教者や無神論者にも、祈ることは出来る。祈りというものは、かならずしも宗教だけに付随するものではない。人間には純粋な祈りがある。

そうした祈りの例として大江は、井伏鱒二の小説を引用している。井伏を尊敬してやまないという大江は、「黒い雨」のなかで、語り手の叔父が姪の幸福を祈る場面を取り上げている。その祈りは、必ずしも宗教的な感情とは言えないが、しかし人間の真心がこもっている。そういう祈りなら、自分にも経験がある。そう言って大江は、障害のある息子について、自分がどのように祈ったかについて触れるわけであるが、その祈りの体験が、この小説の中のギー兄さんの人物像を支えているのではないか。そういう意味でこの小説は、大江自身の祈りの体験を、言葉として表現したものだと言えそうな気がする。





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