革命党派と反原発:大江健三郎「燃え上がる緑の木」

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大江健三郎には、反体制運動に共感する傾向があって、それを小説の中でも表現することがある。「燃え上がる緑の木」では、それがかなり複雑な形をとっている。ひとつは、主人公のギー兄さんを革命党派の生き残りと設定しながら、敵対する党派の生き残りによって襲撃され、殺されてしまうというような、ちょっとわかりにくい話を挿話的に挟み込んでいること。もうひとつは、ギー兄さんらの宗教的な巡礼の行進が、四国にある原発を事故でダウンさせたというような、ポレミカルな設定の話を盛り込んでいることだ。

ギー兄さんは、さっちゃんが四国の山を出て伊豆の山荘でアドベンチャー・ライフを送っている間に、何者かによって襲撃されて、深刻なダメージを受け、自力では歩けない体になってしまったのだったが、かれを襲った連中というのは、かつての革命党派の残党で、ギー兄さんの党派とは敵対的な関係にあった。その連中に襲われたギー兄さんは、両膝をつぶされたうえに、頭をカチ割られて殺されそうになったところを、伊能三兄弟によって助けられたのだが、その際に、凶漢たちに反撃を加えて相手を叩きのめそうとする三兄弟を、ギー兄さんは強く制止したのだった。その理由をギー兄さんは、自分には、自分を襲った敵を憎むことができないというのだった。というのも、ギー兄さん自身、若い頃に、この凶漢たちと同じような行為をし、自分の手を直接には下さなかったにしろ、一人の人間を死に追いやったからだ。そんな身で、自分を襲ったものを、憎む資格はないというのである。

ギー兄さんの理屈は、第三者にはわかりづらいものだ。自分を襲った敵を憎まず、かえって積極的に許すというのは、宗教的な感情でも持ち出さない限りは、説明のつかないことだ。実際ギー兄さんはなかば宗教的な人間として描かれているので、その時のギー兄さんの判断には宗教的な背景があったのだといえなくもない。しかし大江の筆はそれを宗教的な判断からだったとは書いていない。むしろ世俗的な判断からだったというふうに伝わってくる。その世俗的な判断とは、ギー兄さんとかれを襲った凶漢とが、敵対関係にあったとはいえ、かつては革命の理想を共有していたことに根差しているようである。つまりギー兄さんは、自分を襲った連中を殺すことは、連中の理想を否定することを通じて、連中が信奉していた革命の理想を否定することにつながり、それがひいては自分の理想を否定することにもつながるから、かれらを殺すに忍びなかった、というふうに、どうも伝わってくるのである。

もしこの図式が成り立つとすれば、ギー兄さんは、いまだに革命の理想にとらわれているということになる。大江は何故ギー兄さんをそのように描いたのか。

大江は「河馬に噛まれる」のなかで、連合赤軍の生き残りを取り上げて、かれが体現している革命の理想に理解を示していた。連合赤軍といえば、陰惨なリンチ殺人事件を起こした連中で、犯罪心理学の見地からも異常というほかはないのだが、なぜか大江は、かれらに一定の理解を示すのである。その理解は、彼らの人間性ではなく、かれらの抱いていた思想についてということらしいが、思想と人間性とがそう簡単には分離できないことからすれば、大江の同情のこもった理解には、不可解な部分が多い。

百歩ゆずって、連合赤軍の理想に共感するのを認めたとしても、その連合赤軍に殺されることを甘受するのを認めることにはつながらないだろう。ところがギー兄さんは、最初の襲撃について相手を許したばかりか、その相手が再び自分を殺しにかかったところを、自分から積極的に身を投ずるようなかたちで、殺されるのである。これは、相手を許す行為というよりは、何者かに自分を捧げる行為と言うべきだろう。自分自身を燔祭の犠牲として差し出すようなものだ。ここまでくると、やはり宗教的な行為というほかはない。しかし大江はその行為を宗教的なものとしては書いていない。ではなぜ、大江はギー兄さんにこんな行為をさせたのか。そのことによって何が言いたかったのか。

原発が事故でダウンしたという挿話は、幾分かはわかりやすい。ギー兄さんを中心にした宗教的な共同体が、最初の本格的な布教活動のデモンストレーションとして、山のなかから佐田岬半島方面へ向けて行進する。その行進には、反原発の運動をしている人々も加わり、行進のもつイメージ喚起力を利用して、反原発の訴えをなそうと企む。その企みを、ギー兄さんはわかっていながら、あえて拒否することはしない。とはいっても、積極的に協力しようというのでもない。なりゆきまかせなのだ。ところが行進が佐田岬半島の付け根に達した頃に、そこにある原発二機に重大な事故が発生してダウンするという事態が起こる。このことを、反原発グループのものばかりか、ギー兄さんの仲間も喜び、これは教団つまりギー兄さんによる奇跡だというのである。そのことをギー兄さんも否定しない。それは、かつて山の中で数々の奇跡が起こった時に、それが自分の力によるものだと主張しなかったかわりに、否定もしなかったのと同じ姿勢のあらわれだ。

この原発は伊方原発のことだと思うが、大江は別の名前で呼んでいる。伊方原発が重大な事故を起こしたことはあるらしいが、大江はわざわざそのことを指摘しない。名前を出して原発の危険性を指摘するのは、当時の日本ではなかなか骨の折れることだったに違いない。それ故、架空の名前を持ち出して、原発の危険性を抽象的な形で指摘したということかもしれない。それでもそうした指摘に対して、厳しい反発が出たということを、書くのを忘れない。福島の事故が起るまでは、日本で反原発の主張をするのは、かなり骨の折れることだったということが、大江のこの小説からは伝わって来る。

革命党派の問題と反原発の問題を通じて、大江の言いたかったのは何か。反原発の問題については比較的わかりやすく、従って大江が何を言いたかったのかも推測がつくが、革命党派の問題については、いささか混乱した印象しか伝わってこない。混乱を回避してすっきりした印象を得ようとすれば、もっと踏み込んでコミットするような書き方をしなければならないだろう。大江には、例えば連合赤軍を否定的に断罪するつもりはないようだから、何故自分が連合赤軍に積極的にコミットするのか、その理由をもっとわかりやすい形で示す必要があるだろう。







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