揺れ動く(ヴァシレーション):大江健三郎「燃え上がる緑の木」

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「燃え上がる緑の木」という題名は、アイルランドの詩人イェイツの詩からとられている。イェイツについて大江は、「懐かしい年への手紙」のなかで度々言及していたが、この「燃え上がる緑の木」では、小説の大きな原動力としてイェイツを位置付けている。というのも、ギー兄さんを中心とする宗教的な運動は、イェイツの詩の精神によって鼓舞されているからだ。キリスト教の福音にあたるものを、イェイツの詩が果たしているといってもよい。

燃え上がる緑の木というのは、さっちゃんがイェイツの詩から見つけ出したイメージで、「片側は緑に覆われていて露が滴っている木、もう片側は、それが燃え上がっている」。これをさっちゃんは、ギー兄さんと一緒に始める教会のシンボルにしようと提案し、ギー兄さんもそれに賛同した。それが何故、彼らの協会のシンボルになるのか。それについては、谷間の一角に、そうした木を思わせるような巨大な木が立っているということ以外、これといった根拠は示されない。

さっちゃんが、教会のシンボルとして導き出した燃え上がる緑の木のイメージは、「動揺(Vacillation)」という長い詩の中に出て来る。これを大江は、「揺れ動く(ヴァシレーション)」と言い換えて、この小説の第二部のタイトルに用いた。以下、その拙訳を示したいと思う。長い詩なので、前半部分だけ紹介する。

動揺

  Ⅰ

  両極端の間を
  人間は進む;
  たいまつ、あるいは燃え上がる息が
  吐き出されて亡ぼすのは
  あのすべての二律背反
  昼と夜との;
  肉体はそれを死と呼び
  魂は呵責と呼ぶ
  これらが正しいならば
  喜びとは何だ?

  Ⅱ

  一本の木があって そのてっぺんの枝から
  半分は燃えきらめく炎
  半分は露に濡れて緑に繁る葉;
  半分は半分ながら全体でもある;
  どちらもとことん更新していく
  そしてアッティスのイメージが
  凝視する怒りと盲目の青葉の間に架かっている者は
  自分が知っていることを知らないかもしれないが悲しみも知らないだろう

  Ⅲ

  できる限り金銀を獲得しろ
  野心を満足させ つまらぬ日々を活性化させ
  それらを太陽で叩きつけろ
  それでもなお以下の箴言について瞑想せよ;
  すべての女たちは怠惰な男を溺愛する
  子どもたちに豊かな財産が必要だというのに;
  男は誰一人として
  子どもたちの感謝や女の愛に飽き飽きしたことはない

  レテの茂みにからまれるや
  死の準備を始めよ
  40歳になった冬からは その考えによって
  知性や信仰のなせるあらゆるワザをテストせよ
  汝が手づから織りなしたあらゆるものをテストせよ
  そしてそれらを呼吸の浪費と呼べ
  そんなものはこんな男にはふさわしくない
  誇り高く 目を見開き 墓に向って笑いかける男には

  Ⅳ

  我が50歳の年は既に来たり 過ぎ去った
  私は孤独な男として
  込み合うロンドンの店に座った
  大理石のテーブルの上に
  本を広げ 空のコップを置いて
  店と通りを眺めているうち
  そして二十分かそこらで
  私はすごく幸福な気分になるあまり
  自分が祝福されており 他人を祝福できるのだと思われた

この詩が全体として歌っているのは、喜びと悲しみとが不可分に結びついているということであり、悲しみを知らない者には喜びもありえないということだ。第一スタンザは、人間が、夜と昼に象徴されるような二律背反を生きており、その二律背反が無くなるのは人間が死ぬ時だと歌う。第二スタンザは、「半分は燃えきらめく炎/半分は露に濡れて緑に繁る葉」で覆われた木のイメージについて語る。この木も又炎と露に濡れた緑という形で二律背反を歌っているわけである。

第三スタンザは、二律背反とは直接かかわりがないように映るが、怠惰と勤勉を対比させているところは、遠回しに二律背反を歌っているようでもある。第四タンザは、五十歳になった男が、いきなり回心を体験するところを歌っている。このスタンザがあることで、この詩がある種の宗教意識を歌ったものだということがわかる。その宗教意識を深いところで貫いているものが、喜びと悲しみの二律背反ということなのだろう。

このように、「動揺(Vacillation)」と題したこの詩は、イェイツの独特の宗教意識を表現している。大江はそこに、自分が構想しているこの小説へのインスピレーションを感じたのだと思う。なお、上の日本語部分に対応する原文は以下のとおりである。

Vacillation

  I

  Between extremities
  Man runs his course;
  A brand, or flaming breath.
  Comes to destroy
  All those antinomies
  Of day and night;
  The body calls it death,
  The heart remorse.
  But if these be right
  What is joy?

   II

  A tree there is that from its topmost bough
  Is half all glittering flame and half all green
  Abounding foliage moistened with the dew;
  And half is half and yet is all the scene;
  And half and half consume what they renew,
  And he that Attis' image hangs between
  That staring fury and the blind lush leaf
  May know not what he knows, but knows not grief

   III

  Get all the gold and silver that you can,
  Satisfy ambition, animate
  The trivial days and ram them with the sun,
  And yet upon these maxims meditate:
  All women dote upon an idle man
  Although their children need a rich estate;
  No man has ever lived that had enough
  Of children's gratitude or woman's love.

  No longer in Lethean foliage caught
  Begin the preparation for your death
  And from the fortieth winter by that thought
  Test every work of intellect or faith,
  And everything that your own hands have wrought
  And call those works extravagance of breath
  That are not suited for such men as come
  Proud, open-eyed and laughing to the tomb.

   IV

  My fiftieth year had come and gone,
  I sat, a solitary man,
  In a crowded London shop,
  An open book and empty cup
  On the marble table-top.
  While on the shop and street I gazed
  My body of a sudden blazed;
  And twenty minutes more or less
  It seemed, so great my happiness,
  That I was blessed and could bless.







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