ソクラテスの弁明を聞くその五

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ソクラテスに対して有罪の評決がなされ、それについてソクラテスから自分に対する刑罰への意見が述べられたあと、いよいよその刑罰が下されるのだが、それは死刑だった。これをソクラテスは予期していたようであったが、自分に相応しい刑罰とは思わなかったようだ。というのもソクラテスは、「あなたがたは知者のソクラテスを殺したというので、非難されるでしょう」と言っているからである。そして自分が有罪で死刑になったのは、厚顔と無恥が不足したためだと言う。つまり、自分には何も悪いところはないが、法廷の裁判官たちの愚かさのために殺されるのだと強調するのだ。そんな裁判官たちには、ソクラテスの死後懲罰が下されるだろう。その懲罰は、ゼウスに誓って言うが、もっとつらい刑罰になるだろう。かれらを吟味にかける人間がもっと多くなり、彼らを悩ますことだろう。というのも、今までは自分に遠慮して吟味を控えていた者たちが、自分の死後は遠慮なしに吟味するようになるからだ。

以上はソクラテスに死刑の投票をした人間たちへの言葉だが、ソクラテスに無罪の投票をした人々に向っては、最後に残された時間をともに語らいあおうと呼びかける。死刑の宣告からその執行までの間には、手続きに要する時間があるだろうから、それを有効に使おうというのだ。

まずソクラテスは、自分に起こった妙なことについて語る。それは、朝、家を出る時に、例の合図が反対しなかったことだった。また、「ここにやって来て、法廷に立とうとした時にも、反対しなかったし、弁論の途中でも、わたしが何かを言おうとしている、どのような場合にも、反対しなかった」。そこからソクラテスは、今度のことは自分にとっては、善いことだったのではないかと推測する。今度のことで自分は死ぬことになるのだが、それは自分にとってかならずしも悪いことではない。むしろ善いことである。自分にはそう思える、そうソクラテスは言うのだ。

これは、死ぬことが悪いことだと前提したら、馬鹿げた思い込みだろう。しかし、死ぬことは悪いことではなく、むしろ善いことではないのか。そこでソクラテスは、死ぬことの意味について、自分なりの考えを語るのだ。

ソクラテスは言う、「死ぬということは、次の二つのうちの一つなのです。あるいは全くないといったようなもので、死者は何も少しも感じないのか、あるいは言い伝えにあるように、それは魂にとって、ここの場所から他の場所へ、ちょうど場所をとりかえて、住所を移すようなことになるわけです」。つまり、死とは何も感じないようになって消えてしまうことを意味するのか、あるいはあの世へと旅立つのか、そのいずれかだというのである。

もし前者だとしたら、それは「夢ひとつ見ないような眠りの如きもので」あり、「びっくりするほどの儲けもの」ということになる。もし後者だとしたら、それもまた、前者よりも善いことだということになる。何故なら、「オルペウスやムウサイオス、ヘシオドスやホメロスなどと一緒になることを、諸君のうちには、どんなに多くを払っても、引き受けたいと思うひとがあるのではないでしょうか。というのは、わたしは、いま言われたことがもし本当なら、何度死んでもいいと思っているからです」

前者が何故儲けものなのか、その理由をソクラテスは語らないが、おそらくすべての苦痛から解放されるという意味だろうと思う。後者については、ソクラテスは言い伝えを引き合いに出しているのであって、もしそれらの言い伝えが本当だとすれば、我々が死んだ後には、あの世という別の世界が待っているということになる。いずれにしても、死についての、ここでのソクラテスの話は、この対話篇の冒頭で述べられた死についてのソクラテスの考えとは多少の齟齬があるようにも思える。冒頭でのソクラテスの話は、我々は死については何も知らないのだから、死を恐れる理由がないというものだったが、ここでは、死は恐れるべきものではなく、喜ぶべきものだというような話し方になっている。とはいえ、ソクラテスは、死について断定的な言い方はしていないので、やはり自信があったわけではないと思われる。

それ故ソクラテスの語り方は、もし言い伝えが本当であったなら、という前提を踏まえてのものとなる。その言い伝えによれば、人は死ぬとあの世で第二の生を送る。そこでは歴史上の偉人たちが楽しく暮らしていて、自分も又、死後彼らと楽しく付き合うことができる。これはすばらしいことではないか。しかも、この世とは違って、どんなことを言っても罰せられることはない。とくに死刑になる怖れはない。何故ならあの世の人びとは不死だからだ。

ともあれ、ここでのソクラテスは、死は善いものだという前提で語っている。ソクラテスが死を前にして平静でいられるのは、死についてのこのような思いがあるからだろう。死が善いものだとしたら、「善いひとには、生きている時も、死んでからも、悪しきことはひとつもないのであって、そのひとは、何と取り組んでいても、神々の配慮を受けないということは、ないのだという、この一事を、真実のこととして、心にとめておいてもらわなければなりません」ということになる。

そこでソクラテスは言うのだ、「もう死んで、めんどうから解放されたほうが、わたしのためには、むしろよかったのだということが、わたしには、はっきりわかるのです。このゆえにまた、例の合図も、わたしをどこにおいても、阻止しなかったのです」

こうしてソクラテスは、親しい人々に最後の挨拶をする。「しかし、もう終わりにしましょう、時刻ですからね。わたしはこれから死ぬために、諸君はこれから生きるために」

このソクラテスの言葉は、死ぬことを、自分の決断にもとづく行為のようにとらえている。死はソクラテスにとって、外からやって来る害悪のようなものではなく、自分自身の決断に基づいてつかみとる善い事柄なのだ。死が善い事柄だということの理由については、ソクラテスは多くを語ることはなかった。それをソクラテスはとりあえず、言い伝えによって基礎づけたに過ぎない。だから、言い伝えではなく、真実としてそれを言えるようにならねばならない。それは、ソクラテスにとっても、プラトンにとっても課題として残ることとなった。その課題をプラトンは、ソクラテスを通じて、さまざまな対話篇のなかで解決していくであろう。

以上ソクラテスの弁明なるものを一通り聞いたわけであるが、そこから我々が感じるところは、これは弁明というよりも、弁明の名を借りたソクラテスの主張なのではないかとの印象を持たされる。弁明というより、居直りというに近い。その居直りは、死を迎えることの満足感から来ているのではないか。






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