ペルシャ猫を誰も知らない:バフマン・コバディ

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2009年のイラン映画「ペルシャ猫を誰も知らない」は、現代のイラン社会に生きる若者たちをテーマにしている。この映画を見ると、イラン社会というのは非常に抑圧的な社会で、若者たちは、自分の好きなこともできない、ということが伝わって来る。それでもそこをなんとかして、自分のしたいことをしようともがく若者たちを、この映画は描いているのである。題名に含まれているペルシャ猫とは、現代のイランに生きる若者たちのことを言い、その若者たちの苦悩を世界の人たちに理解してほしいという意味が、この題名には込められているのだと思う。

この映画に出て来るイランの若者たちは、音楽を生きがいにしている。自分たちで作った曲をコンサートで披露するのが彼らの夢だ。ところがイランでは、自由にコンサートを催すことができない。そこで若者たちは、非合法にコンサートを催しては警察のお世話になる。コンサートを催しただけで警察に引っ張られるなど、我々日本人にはとうてい理解できないが、その理解できないことが、イランではあたりまえという事情が、この映画からは伝わって来る。

映画の主人公は、二人の音楽好きの男女。彼らは、女性が作った歌詞をもとに、それをインディ・ロック風にアレンジして、コンサートで歌うのが夢なのだが、コンサートの許可がなかなか下りない。色々うるさい条件があるからだ。たとえば、コンサートメンバーに女性を入れる場合には、コーラスの形にしなければならないなど。女性はヒロイン的に目立ってはいけないということらしい。

そこで彼らは、海外に行ってコンサートを催したいと思う。海外なら、何も気兼ねせずに自由に演奏できるだろうと思ったからだ。しかし海外に自由に旅行できるわけではない。イランではパスポートをとること自体がむつかしいし、ビザもたやすくは入手できない。そこでいかがわしいブローカーに頼み込んで、パスポートとビザを入手しようとしたりする。そのブローカーとの仲介役を、これもいかがわしい雰囲気の若者がつとめる。

海外をめざす一方で、彼らはコンサート仲間のリクルートを行う。バンドのめどがつくと、非合法のコンサートを催すことにする。それで気勢をあげ、その余力で海外に雄飛しようというのだ。だが、海外に行く夢は、断ち切られる。頼みのブローカーが警察に逮捕されてしまったからだ。

こんな具合に、この映画の中の若者たちには、救いというものがない。その救いのなさを映画はリアルタッチに描きだしているわけだが、そこに強烈な体制批判意識を、観客は感じさせられるのである。

なお、この映画は、その反体制的なところが権力からにらまれ、イラン国内では上映ができなかったばかりか、監督のバフマン・コバディは事実上亡命を余儀なくされたということだ。





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