パイドロス読解

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「パイドロス」は、プラトンが五十歳前後の頃に、「国家」とほぼ同時に、おそらくは「国家」を書き上げてからすぐに書いたものと思われる。そんなことから、イデア論をはじめ「国家」と同じような問題意識が見られる。この時期のプラトンは、アカデメイアの運営もうまくゆき、心身共に最も充実している時で、思想ものびやかな展開を見せていた。この対話編はそうしたプラトンの思想ののびやかさがもっとも鮮やかに展開されているものである。しかも対話の舞台となっている場所は、他の対話編とは異なり。アテナイ郊外の自然の中に設定されていて、ソクラテスはその自然に包まれるようにして、自己の考えをのびやかに展開するというわけなのである。そういう点からいっても、この対話編はユニークな魅力を持っている。プラトンの対話篇のなかでも、もっとも魅力的な一編である。

対話の直接的なテーマは、弁論術である。ソクラテスの対話相手に設定されたパイドロスが、当時弁論術の大家として有名だったリュシアスから、弁論術の極意を伝授されたと言うのに対して、ソクラテスが例によって、リュシアスの弁論術に反駁を加え、真の弁論術とはどうあるべきかについて、パイドロスとともに考えるというような設定になっている。その際に、弁論術の具体的な実例として三つの物語がとりあげられる。その三つの物語の実例に即しながら、ソクラテスはあるべき弁論がどんなものかについて考察するわけだが、その実例はいずれも恋についてのものだった。それゆえ、この対話篇の実質的なテーマは恋とは何かということになるが、それにあわせて、恋と深いかかわりがある魂とか、魂がめざすべき真理とか、真理の本来の形であるところのイデアとか、そのイデアとの人間のかかわりとかが、次々と論じられる。そうした議論のモチーフはいずれも、プラトンの思想の中核概念をめぐるもので、それらを通じてプラトンは、「国家」において一応の形を整えた自分の思想を、ある程度まとまった形で整理して見せた、というのがこの対話篇の意義だろうと思う。

プラトンがこの対話篇のテーマに弁論術を選んだことには、時代的な背景が働いている。当時のアテネは一応民主主義の全盛期であったが、民主主義的な社会とは、市民が対等の立場からそれぞれ自己の利益を主張しあうような社会であった。そうした社会にあっては、法廷や集会の席上で自己の主張を雄弁に展開し、人々を説得する技術が重んじられた。ソフィストが流行ったのは、そうした技術的な要請に一定程度答えたからであるが、リュシアスのような弁論術の専門家は、もっと踏み込んだ形で雄弁な弁論のあり方を教えることで生計を立てていたのである。プラトンはそうした風潮に日頃疑問を持っていた。弁論家たちが、弁論術を駆使して主張するのは、真実そのものではなく、真実らしさにすぎない。真実らしさというのは、人々が真実と受け取ることであって、かならずしも本当の意味での真実であることにはこだわらない。人々が真実らしく受け取ることを根拠に、人々を説得できれば弁論術の目的は達せられるのだ。そういう風潮が当時は支配的になっていて、それがリュシアスのような弁論術家を流行らせていたわけだが、プラトンはそういう風潮に拒絶反応を示したのである。ソクラテスを死に追い込んだのは、そうした風潮だったという思いがあったからだ。それ故、この対話篇の中では、プラトンはほかならぬソクラテスの口を通じて、偽の弁論を反駁しながら、本物の言論のあり方を提示するわけであり、その本物の弁論とは、真実らしさではなく本当の真理をめざすものなのだと、強く主張させるわけなのである。

ソクラテスによる議論は、例によって具体的なテーマをめぐって展開されるのだが、その具体的なテーマは、ここでは恋をめぐる三つの物語とされる。そのうちの一つは、リュシアスがあるべき弁論術の模範としてパイドロスに示したものだ。ソクラテスはそれを一応の議論の前提としたうえで、それをもっと極端化させ、そのことでリュシアスの議論に内在する矛盾をあぶりだすという方法を、とっている。これは相手の議論に反駁を加えるためのアイロネイアの実例だが、ソクラテスはそれを超えて、自分自身がその正反対の実例を示し、リュシアスと自分とどちらが正しい議論の道筋を示しているか、パイドロスに判断させようとする。その辺の議論は、弁証法といわれるソクラテスの論証方法をスマートな形で展開させたものである。

リュシアスの示した実例とは、自分を恋している人に愛されるよりも、自分を恋していない人に愛される方が望ましいというもので、それを証明するためにリュシアスはいろいろな理由をあげる。それに対してソクラテスは、リュシアスのいうことを一応正しいものとして、その主張を突き詰めればどういうことになるかについて、議論を進めていく。そしてそこに矛盾があることを相手に認めさせたうえで、その正反対の議論を展開する。それは、自分を恋している人に愛される方がずっと望ましいというものだが、その理由としてソクラテスが持ち出すのは、真理とか正義とか、イデアとか人間の認識のあり方とか、「国家」編に集約されたプラトンの思想の中核をなす諸概念なのである。それゆえこの対話編は、プラトン思想のその時点におけるオンパレード的な提示という体裁になっている。

ソクラテスの対話の相手になっているパイドロスについては、他の対話篇にも出て来るということ以外、詳しいことはわかっていない。一方リュシアスのほうは、その著作が伝わっており、その生涯についても多少のことは明らかになっている。リュシアスはアテネの正式な市民権を持たなかったので、自分自身は法廷や集会場に立って弁論を披露することはなかったが、アテネ市民を相手に弁論術を指導していた。その弁論術は、ソフィストたちとはまた異なったもので、イソクラテスと並んで純粋な弁論家といってよかった。プラトンがこの対話篇を書いたのは、おそらくリュシアス死後のことと思われるが、プラトンはこの過去の高名な人物に対してかなりあからさまに攻撃を加えている。相手が不在なだけに、その攻撃性には奇異なところがある。

二人の対話が繰り広げられる舞台は、アテナイ郊外の、イリソス川のほとりということになっている。イリソス川は、いまでは市中の暗渠になってしまったが、プラトンの時代には、アテネの南東の城壁近くを流れる小川だったという。その小川のほとりで、自然に囲まれながら、蝉の声を耳にしつつ、長閑な雰囲気で対話の議論は展開していく。ソクラテスは、アテネの市内から出たことはほとんどなく、友人たちと対話をするのはアテネ市内の路上とか友人の家だったりするのだが、ここでの対話だけは例外で、郊外の自然に囲まれながらのんびりと議論することになっている。そういう設定も手伝って、議論の内容はかなり壮大なものである。

弁論術とか恋をめぐるこの魅力ある対話篇を、以後逐次読解していきたいと思う。テクストには、藤沢令夫訳の岩波文庫版を使った。







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