意識の形而上学:井筒俊彦

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井筒俊彦は、西洋哲学の伝統的なタームを用いて東洋思想を読解することに生涯を費やした。かれが読解作業の俎上に載せた東洋思想は、イスラームからインド仏教、中国の道教や易経にまで及ぶ。儒教については宋学で代表させているようだが、その宋学は易経のバリエーションのようなものとして位置付けられている。こうした多彩な東洋思想を、ある一つの統一的な観点から読解するのが井筒のやり方で、かれは自分のそうした作業の大部分を英語で発表した。かれの英語の能力は、まるで母国語を操るように高度なものだったらしい。そのおかげもあって、かれの著作は世界スケールで広く読まれたそうだ。それは、英語の能力の賜物でもあるのだろうが、基本的には、かれの説明の仕方が、上述したように、西洋哲学の伝統的なタームを用いていて、西洋人に理解しやすかったためだと思う。

ある一つの統一的な観点と言ったが、それは、すべての事象を、究極の根拠に遡って、その根拠に基づいて説明するというやり方である。その究極の根拠とは、あらゆる存在者の存在の根拠という形をとるが、それは同時に、人間の意識の根拠でもある。井筒にとっては、存在と意識とは、同一物の異なった現れとして、もともとは根拠を同じくするものなのだ。井筒は。東洋思想のほとんどすべてのものを、ある種の唯心論と特徴づけるのだが、彼のいう唯心論とは、バークリー的な意味での唯心論ではなく、存在と意識とを同一視することに基づいている。意識が存在を基礎づけるというバークリー的な意味ではなく、意識と存在とは別物ではない、というような意味である。

このような観点からする東洋思想論を、井筒はまずイスラーム神秘思想の読解に適用した。イスラーム神秘思想は、井筒によれば、スーフィズムによって代表されるが、スーフィズムとは、あらゆる存在者の存在の根拠を求め、その根拠に基づいて、現象的世界としてあらわれるものを説明するものである。この場合、真実の存在は究極の存在としての真実在であって、この世界において現象としてあらわれる諸々のものは、真実在に究極の根拠を持っている。その真実在は、あらゆる限定を超越した無限定・未分節なものとしての一者と規定づけられ、その一者が自己限定することによって現象的世界があらわれるという構図になっていた。現象的な世界を帰納的に究明することから究極的な一者が求められるというよりは、その究極的な一者を直観的に把握し、その一者から演繹的に下降して、もろもろの現象的な世界が生まれるとするような考えかたは、西洋的な思考をする人にもわかりやすい。たとえばヘーゲルの絶対精神の哲学などは、だいたい似たような構図を持っている。それは、絶対精神が自己疎外することで現象的な世界が成立するとする点で、真実在としての一者が自己限定することで現象的世界が生まれるとするスーフィズムの思想的構図と実によく似ている。絶対精神を真実在と言い換え、自己疎外を自己限定と言い換えれば、両者が言っていることは、構図的には、ほとんど変わらないと言ってよい。

「意識の形而上学」と題した著作は、副題に「大乗起信論の哲学」とあるように、大乗起信論を、上述した観点から読解したものである。これは、井筒の最後の著作ということだが、実は、それまでの自分の研究を集大成するものとして考えていた壮大な書物の、最初の一部分という位置づけだったそうだ。井筒はこれに引き続き、東洋思想を代表する思想を次々ととりあげ、それらを統一的な観点から読解することで、東洋思想を一つの壮大な体系として、つまり統一した全体として、提示するつもりだったようである。もしそれが実現していたら、我々は、東洋思想を、バラバラな思想の集まりとしてではなく、統一した全体思想として理解するように動機づけられたと思う。

この本のテーマは、大乗仏教の古典とされる大乗起信論をモチーフにして、上述したような、世界の究極根拠についての議論を展開することにある。そのことを通じて、大乗起信論の思想が、とりあえずは、イスラーム神秘思想としてのスーフィズムと、非常に似通ったものであることを、納得させられるようにできている。井筒としては、大乗起信論とスーフィズムとが同じような論理構造をもっていただけではなく、それは東洋思想の根本的な特徴として、ほかの東洋思想、たとえば道教とか易とかにも共通すると言いたかったに違いないのだと思う。

この著作物は三部構成をとっているが、基本的には、存在に関わる部分と、意識にかかわる部分との、二つの部分に大別される。存在にかかわる部分は、スーフィズムの存在論と非常によく似た論理構造をもっている。つまり存在の究極根拠を無限定・未分節な絶対的真実在としての一者に求め、その一者が自己限定・自己顕現することで現象的な世界が生まれて来るとする。そうした構図は、道教でいう道とか、インドのヴェーダーンタ哲学とも共通すると井筒は言っている。またスーフィズムとの共通性は、おのずから明らかなように書かれている。

この著作の、この著作らしいユニークさは、意識を論じた部分にある。意識という言葉は、とりあえず、大乗仏教で言う「心」に対応する言葉であるが、井筒はあえて「心」という言葉を使わず、西洋的な匂いが強い、この「意識」という言葉を使う。そうすることで、東洋思想のわかりにくさを、幾分かやわらげ、西洋的な思考に馴染んだ人にも、わかりやすくしたいとする意図があるのだろう。ともあれ、この意識の分析は、二つの面を持っている。ひとつは心理学的な面で、それを通じて、人間の認識の特徴とか限界を明らかにしようとする。もう一つは、意識のコントロールを通じて、真実在を把握する能力を持とうとする意志である。その意思には宗教的な情熱が込められているかに見える。何故なら、真実在を把握することは、単なる認識論上の課題ではなく、精神的な課題としての「悟り」につながるからである。

というわけで、井筒はこの書物を通じて、存在の根拠に関する「哲学的」な議論をしながらも、存在の根拠の把握が、そのまま「悟り」としての、人間の救済につながるというようなことを言っているわけである。そういう意味ではこの著作は、哲学書であるとともに、宗教の書でもある。読者は、この著作を哲学の書として読み始めながら、いつしか宗教的な「悟り」へと導かれているのを感じるに違いない。しかしその「悟り」は、言語によって誘導されることはない。何故なら宗教的な「悟り」とか「回心」とかいうものは、論理の問題ではなく、情念の問題だからだ。その情念の問題をこの本は、論理によって基礎づけるようなところがあって、論理と情念とを区別するのが常識の、西洋的な思考に馴染んだ者には、いささか胡散臭いものを感じさせなくもない。





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