エドワード二世:デレク・ジャーマン

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エドワード二世は、イギリスの歴史上最も劣悪な王といわれる。その理由は、優柔不断で指導力がなかったこと、同性愛に耽溺し、愛人を不当に優遇して人心の離反を招いたことだ。その挙句、天涯孤立の境遇に陥り、ついには妃であるイザベルに殺されてしまった。そんなエドワード二世の半生を、シェイクスピアのほぼ同時代人で、これも破天荒なスキャンダルをまき散らしたことで有名なクリストファー・マーロウが劇に仕立てた。それをデレク・ジャーマンが映画化したのがこの作品だ。ジャーマンのことであるから、エドワード二世の言動のうち、同性愛の部分に関心が集中しているきらいがあるが、これはマーロウの原作もそうなのであるか、原作を読んでいない小生には判断できない。一応原作を無視して映画に光を当ててみたい。

エドワード二世が同性愛の相手に選んだのは、庶民の出身ガヴェストンだ。ガヴェストンには政治的な野心はあまりなかったようだが、王をたぶらかして国政を紊乱したかどで、フランスに追放されていた。そのガヴェストンを再びイギリスに呼び戻して、かつての同性愛を復活させることから映画は始まる。ガヴェストンの登場で夫の愛を失うこととなった王妃は、複雑な感情を蓄積させていく。その挙句に、貴族のモーティマーと不倫の関係になり、モーティマーともども王の殺害を企むに至るのである。

映画の前半は、王がガヴェストンとの同性愛に耽溺するところを描く。あまり露骨な濡れ場はなく、ジャーマンとしては抑圧された画面づくりといってよい。それでも王の周辺の貴族たちは、ガヴェストンによって国政が再び紊乱されていることに怒り、なんとかしてガヴェストンを追放しようと試みる。だが、王を廃そうとまでは考えない。とりあえずガヴェストンを追放したうえで、殺害することで満足する。

愛人を殺された王は、大いなる嘆きにくれる。その嘆きを、ガヴェストンの仲間だったスペンサーが慰め、やがて王の第二の愛人になる。王が二人目の愛人をもって、性懲りもなく同性愛に耽っているのに、王妃イザベラは堪忍袋の緒を切らす。彼女は恋人のモーティマーと結託して、王をロンドン塔に閉じ込め、刺客をつかわして王を殺害するのだ。怒りがおさまらない王妃は、並みの殺し方ではなく、耐えがたいような苦痛を与えることを命じる。その命を受けた刺客は、考えられるかぎりもっとも残酷な方法で王を殺す。男色者である王の肛門に、まっ赤に焼けた鉄の焼き鏝を突っ込んで殺すのだ。苦痛のすさまじさもさることながら、これなら王を露骨に拷問したことがわからないからだ。いかに廃王とはいえ、非人間的な方法で殺したとあっては、世間体が悪いというものだ。

王妃とモーティマーは、王の息子を新しい王にたて(エドワード三世)、モーティマーは摂政におさまる。そんなモーティマーを王の弟が批判すると、モーティマーは新王の目の前で王の弟を殺害する。それを新王は、子供ながら許せないと思うのだ。その気持ちが高じて、新王はモーティマーを殺害し、母親のイザベルを監禁する。映画では、まだ子供の新王が、モーティマーと母親の二人を、鉄の折の中に封じ込めるというかたちで、二人に懲罰を与えている。

こんな具合でこの映画は、エドワード二世が、同性愛に溺れるあまりに身をくずし、ついには殺害されるまでの過程を描いているのだが、エドワード二世を悪王としては描いていない。王が人心を失うのは、かれの思慮が足りなかったせいであって、別に悪事を働いたからではない。すくなくとも同性愛を悪事とはいえないはずだ。その同性愛が理由で殺されるにいたったことは、エドワード二世にとっては不幸なことだった。そんなジャーマンの想いが伝わってくるように、映画は作られている。といっても、同性愛賛歌とまでは言えない。






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