タイトルとしての取り替え子:大江健三郎を読む

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小説のタイトル「取り替え子」には、いくつもの意味が多層的に含まれている。というか作家によって含められている。それらの意味を、読者に向かって解き明かす役目を果たすのは大江の妻の分身千樫である。三人称の形式をとっているこの小説は、出だしからずっと大江の分身古義人の立場から語って来たのだが、最後の章で俄然千樫の視点に立った書き方をする。そのことで小説に構造的な変化が生まれ、また、女性である千樫の視点から書けるという効果も生まれた。視点が多数あるというのは、小説にとっては、独特の効果を生むものだ。まして女性の視点が含まれている場合には、なおさらである。

千樫は小説の最後の章で、「取り替え子」についての思索を巡らすのであるが、そのきっかけは、夫の古義人がベルリンから持ち帰った二冊の本だった。一冊はモーリスセンダックの絵本「Outside over there(日本語のタイトルは『窓の外のまたその向こう』)」、もう一冊は「Changeling」と題した非売品の小冊子だった。センダックの絵本を見た千樫は、強く心を動かされる。主人公のアイダという少女が、自分とよく似ている、というか自分そのもののように思えたのだ。とくに足の形がそっくりだった。千樫は、父親が映した少女時代の自分の写真を引っ張り出して見たのだったが。そこに映っていた自分の足が、絵本のなかのアイダの足そっくりだったのだ。

絵本の中の話は、赤ん坊の妹がゴブリンたちにさらわれ、アイダが妹を取り戻す旅に出るというふうに発展していく。ゴブリンたちは、本物の妹のかわりに氷でこしらえた偽物の妹を残していった。アイダは当初それが偽物だとは知らず、抱きしめて「あなたが好きよ」と呼びかける。その呼びかけられた偽物の妹を、研究者たちが「取り替え子」という概念であらわし、それについてのさまざまな論考を集めたものを、「Changeling」と題した諸冊子にまとめたというわけなのだった。

アイダが当初、妹が偽物だと気が付かなかったのは、赤ん坊がいなければいいのにと願っていたからだ、という解釈をするものがいる。それに千樫が同調するふうであるのは、自分にも同じような経験があるからだ。最初に生んだ子が、障害を持って生まれ、親たちにとって大きな負担になるだろうことを思うと、子どもがいなければ、と考えるようになるのは自然だ。

「取り替え子」という言葉から、千樫の連想は兄の吾良に向かう。兄は、ある時から人が変ってしまった。それは、この小説の大きなテーマとなる出来事がきっかけだった。その出来事のことを千樫は知らなかったが、二日間家を留守にして戻って来た兄は、それまでの兄とは全く別人になっていた。それが千樫には悲しく、できたら本来の兄を取り戻したいと思った。今の兄は本来の兄ではなく、取り替え子のようなものに感じられたのだ。しかし、本来の兄を取り戻すことはむつかしい。それでこれから生まれて来る自分の子どもを、本来の兄の身代わりとして育てようという気にさえなったのだった。

千樫がそれほどまで兄にこだわるのは、兄に対してコンプレックスを持っていたからだ、というふうに伝わって来る。千樫は兄の美しさについて繰り返し語る。兄は美しいばかりではなく、誰からも愛されていた。兄の存在があまりにも大きかったので、妹の自分は家族の中でも影が薄いほどだった。そんな昔のことを千樫は思い出して、ため息をつくのである。自分が古義人と結婚する気になったのは、古義人が兄と強く結び付いていたからだ。古義人との結婚を兄は反対したけれど、自分には兄と強く結び付いていた古義人以外に、結婚すべき相手はいないように思われた。そんな具合にして、この小説は妹である千樫の視点を通じて、吾良の人物像に複雑な陰影を施していくわけである。

「取り替え子」をめぐる話はさらに発展していく。吾良がベルリンで親密になったドイツ人の若い女性が日本へやってきて、千樫を訪問した。彼女は、千樫の夫である古義人が、ドイツで講演した内容を、千樫に語って聞かせた。それは次のような内容のものだった。古義人は幼い頃に重病になって、医者からも見放された。その時に母親が枕元で語ってくれた。「もしあなたが死んでも、私がもう一度、あなたを生んであげるから、大丈夫」と。古義人が不審に思っていると、母親は、新しく生まれてくる子供を、あなたと全く同じようにして育てるから、二人はすっかり同じですよ、と言うのだった。そんな話に深く影響された古義人は、今の自分はもしかしたら、一度死んだ後に、お母さんが新しく生んでくれた子なのではないか、と考えることがあるのだ。

千樫を訪ねてきたドイツ人の女性は妊娠しており、堕胎するために日本にやってきたのだったが、この話を読んで心変わりし、生むことにしたと語った。なぜそんな気持ちになったのかと千樫が聞くと、その女性は、死んだ子供つまり吾良のために、「もう一度子どもを生んで、死んだ子供が見たり読んだり、したりしたことを全部話してあげる・・・死んだ子供の話していた言葉を新しい子供に教えてあげるお母さんになろう、と思ったんです」と答える。こういうふうに語ることで大江は、子供の教育に果たす母親の決定的な役割を強調しているように思える。母親は子供を生むばかりでなく、一人の人間として育てる役割を決定的な形で果たしている、というわけである。

ともあれこんな具合にして、小説の最後の章では、取り替え子をめぐる四つのエピソードが語られる。それらのエピソードは、何らかの形で吾良と結びついている。その結びつきは、千樫の兄への強いこだわりともかかわりがある。そのこだわりが、兄妹の関係における一つの典型を示すとともに、この小説を吾良すなわち伊丹十三の死を悼む鎮魂の響きのようなものにしているのだと思う。女の嘆きほど、魂を慰めるものはない。作者の大江はそんなふうに思っているようだ。






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