ザ・ガーデン:デレク・ジャーマン

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デレク・ジャーマンの1990年の映画「ザ・ガーデン(The Garden)」は、同性愛者(男色者)の受難をテーマにした作品だ。この映画が描く受難には二通りある。一つは肉体の受難、もう一つは精神の受難だ。肉体の受難は拷問による死によって、精神の受難は嘲笑によって表現される。

この映画を作ったとき、デレク・ジャーマンのAIDSはかなり進行し、死はすぐそこに見えていた。ジャーマンはそれを受難として受け取ったのだと思う。ジャーマンの肉体的な受難はキリストの受難と比較される。実際この映画にはキリストらしき人物も出て来るのだ。ジャーマンの受難がキリストのそれと違うのは、キリストには精神の自由が伴っていたのに対して、ジャーマンの場合には、精神の自由さえ脅かされているということだ。

前作の「ウォー・レクイエム」同様、筋書といえるような明確なものはない。二人の同性愛者の愛のかわしあいを中心に、同性愛をモチーフにしたらしく見えるさまざまの映像が継起するだけだ。かれらの同性愛はやがて社会の糾弾を受け、官憲によって弾圧された挙句、キリスト同様十字架にかけられて殺される。十字架にかけられたキリストには精神の自由が伴っていたが、人間である彼らにとっては、受難は悲しみをもたらすのだ。

映像はモノクロとカラーとが交差される形で展開するが、どちらに分類されるか、規準らしいものはない。同じ人物の行為がモノクロだったりカラーだったりする。映像は様々だが、主要なキャラクターを指摘することはできる。

まず、二人のゲイ。彼らが愛し合う場面が繰り返し出て来る。彼らはやがて官憲による侮蔑的な拷問を受けた後、十字架にかけられることになろう。この二人に一人の少年がからむ。少年の存在は児童性愛を暗示するのであろう。あるいは現代に蘇ったキリストのイメージかもしれない。そのキリストは大人になった姿でも出て来る。何故かアラブ風のフードを被った姿だ。キリストはパレスチナ人だったわけだから、アラブ風の砂漠用のフードを被っていてもおかしくはないのだろう。ある女性が出て来るのは、キリストの母マリアか。そのマリアがキリストを生んだ時、東方から三人の博士が礼拝にやってくる。すると大勢のカメラマンがその決定的な瞬間を撮影しようとして群がって来る。かれらは、ダイアナ妃にまとわりついたパパラッチを思わせる。

パパラッチはまた、大勢の女に襲われる女装した男をも追いかけまわす。その女装した男をキリストが見守る。キリストも又同性愛者だったとの暗黙のメッセージが聞えてくるようだ。キリストがピラトの屋敷で人々から嘲笑されたように、二人の同性愛者は官憲の取調室で侮蔑的な取り調べを受ける。血糊を頭じゅうにこびりつけられ、それにダチョウの羽をからみつけられる。ダチョウの羽にはなにか侮蔑的な意味が込められているのだろうか。

二人はついにキリスト同様十字架に張り付けられる。その十字架を二人でゴルゴだの丘まで運ぶ。それをキリストが見送る。キリストの脇腹には槍で刺された傷跡が見え、手には釘を打たれた跡が見える。

映画は、二人の同性愛者の十字架による受難で終わる。そこにジャーマンによるメッセージが披露される。自分はこうして庭を歩いている、死んだ友を想いながら、と。庭といっても、それらしき映像は出てこない。心の中の庭か。

こんな具合に、筋書という点ではとりとめのなさを感じさせるが、同性愛者の受難については十分に伝わって来る。そういう点ではこの映画は、同性愛への社会の偏見に訴えかけるところがあるが、その訴えが功を奏したかどうかは、小生にはわからない。






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