パイドロス読解その九

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これまでの対話を通じてソクラテスは、恋の狂気に駆られた者が、狂気の故に悪いことをするのではなく、むしろ良いことをするのだということを、論証したのであるが、次いで、その恋する者と、彼が恋する愛人との間にどのような関係が成り立つのかについて、例の魂の似姿の比喩を用いながら考察するのだ。その比喩とは、魂は三つの部分からなっていて、そのうち二つは馬で、一つは御者であり、二つの馬のうち一つはすぐれた馬であり、もう一つは悪い馬だということだった。

ソクラテスは、良い馬と悪い馬とを、単に良いと悪いに区分けするだけではなく、それらがどのようにして良く、どのようにして悪いのか、こと細かく説明する。良い方の馬は、良い方の位置すなわち右手にあり、「その姿は端正、四肢の作りも美しく、うなじ高く、威厳ある鉤鼻、毛並みは白く、目は黒く、節度と慎みをあわせもった名誉の愛好者、まことの名声を友とし、鞭うたずとも、言葉で命じるだけで御者に従う。これに対して、もう一方の馬はとみれば、その形はゆがみ、ぜい肉に重苦しく、躰の組み立てはでたらめで、太いうなじ、短い頸、平たい鼻、色はどすぐろく、目は灰色に濁って血走り、放縦と高慢の徒、耳が毛におおわれていて感がにぶく、鞭をふるい突き棒でつついて、やっとのことで言うことを聞く」といった具合である。

こういうふうに、何かを話題として取り上げる時に、その話題の対象となったものを、ことこまかく説明するのはソクラテスの癖のようなものであって、後ほども蝉が話題になったときに、蝉の起源とかその属性について、やはりこと細かく説明するのである。ともあれソクラテスが馬について説明するところを見ると、鼻の形や目の色が、議論にどんなかかわりがあるかには無関係に、熱心に馬の属性を列挙するのである。その説明ぶりは偏執狂的な情熱を感じさせる。

さて、魂の三つの部分のうちの御者が、恋心をそそる姿を目にしたとしよう。そのときに、二頭の馬はそれぞれ正反対な行動をとるだろう。良い方の馬は、御者の思いを受け止めながら、慎み深く行動するだろう。それに対して悪いほうの馬は、愛欲に駆られて暴れまわるだろう。この際に、御者が二頭の馬、とくに悪い方の馬を制御できたならば、彼は節度をもって愛人に接することができるだろう。逆に二頭の馬が制御できなければ、彼の恋は悪い意味での狂気に陥ることになる。

かくして愛された人は、初めは自分がなぜ愛されているかわからないのであるが、そのうち自分からも相手を愛するようになる。その愛し方は次のようなものである。「その人の姿を見、そのからだに触れ、くちづけをし、ともに寝ようという欲望を感じる・・・欲望に胸はふくれて思いは惑い、この、世にも心の優しい人を、愛情をもって迎え入れようと、自分を恋している人のまわりに腕を投げかけ、くちづけをする。そして相並んで横になるとき、もし望まれたなら、身をまかせて、自分としてできるかぎり、この人をよろこばせることを拒まないだろうという気持ちにまでなる」

かなり官能的な書き方になっているのは、自分自身同性愛者であったプラトンの体験に基づいているからだと思う。こういう書き方は、一部の日本人も得意とするところで、たとえば、保元の乱を起こした藤原頼長は、日記「台記」のなかで、男同士の性愛の現場をなまなましく描いているし、明治の碩学南方熊楠も、男色の心得について、微に入り細を穿って説明している。

このような、恋する者によって始められた恋は、その者たちに理想的な生き方を保障する。とくに彼らが、知を愛し求める生き方を求める場合には、「この世において彼らがおくる生は、幸福な、調和に満ちたものになる。それは彼らが、魂の中の悪徳の温床であった部分を服従せしめ、善き力が生ずる部分はこれを自由に伸ばしてやることによって、自分自身の支配者となり、端正な人間となっているからだ」。そのような者は、この世の生を終えてからは、翼が生えて、天界に上昇し、神々の行進に従うことができるようになるであろう。

知を愛する生き方をしないまでも、名誉を愛する生き方をした場合には、先の二人ほどはないにしても、互いに愛情によって結ばれた友なのであって、この世の生を終えたあとは、翼こそ生えてはこないけれども、その魂は「翼を生じようとする衝動を持ちながら、肉体を離れていく」。その者の魂は、天界に行くことこそかなわないが、しかし地下の旅路に赴くこともなく、「明るい生をおくり、手に手をとって道を行きつつ幸多きときをすごすこと、そして時きたれば、恋の力によって、相ともに翼を生ずること」間違いない。

このように、恋する者によって始められた関係は、恋していない者によって始められた恋よりも、はるかにすばらしいのだ。それは恋の狂気が、神々とともに見た真実在に基づいているからだ。それに対して「恋していない者によってはじめられた親しい関係は、この世だけのけちくさい施しをするだけのものであり、それは愛人の魂の中に、世の多くの人々が徳としてたたえるところの、けちくさい奴隷根性を産みつけるだけなのだ」

以上を以てソクラテスは、リュシアスの意見を反駁して、恋する者によって愛されるほうが、恋していない者によって愛されるよりもずっとすばらしいということを立証したとして、親愛なるエロースに、ひとたびは恋の狂気を蔑んだ非礼を許してほしいと詫びるのである。

ともあれこれを以て、ソクラテスとパイドロスは、この対話の当面のテーマに、それなりの結論を与えたわけである。だから、一段落ということになるわけだが、ソクラテスは対話をやめるにはまだ早いというような態度をとる。恋をめぐる問題については一応の結論がでたものの、リュシアスの弁論術がどのようなわけで、恋をあのように誹謗したのか、その理由がまだ解明されてはいないし、第一、頭上で鳴いている蝉たちが、我々を見張っているというのだ。「もしあの蝉たちが、ぼくたち二人も多くの人びとと同じように、このおひるどき、談論をとりかわさないで居眠りをし、心ものうきままに、彼らの歌にうっとり魅せられているのを見るならば、当然のことながら、彼らはぼくたちを嘲笑するだろう」というわけである。

ここでソクラテスは話題を変え、蝉にまつわる話をする。ソクラテスの話は脱線が多いのであるが、これもその脱線の一つである。ソクラテスは言う、「むかし、あの蝉たちは人間だった。ムウサの神たちがまだ生まれない前の時代に生きていた人間どもの仲間だった」と。ところがムウサたちが生まれて、この世に歌というものがあらわれるや、その楽しさに我を忘れ、歌い続ける人間たちがいた。その人間たちが、蝉の種族の祖先なのだ。だから蝉の種族は、「この世に生を受けると、何一つ身を養う糧を必要とせずに、生まれたすぐその時から死んでいくその日まで、食わず、飲まず、ただひたすらうたいつづけ、そして、死んでからのちは、ムウサたちのもとへ行って、この世に住む人間どもの中の誰が、どのムウサの女神を敬っているかを報告することになったのである」

ここでソクラテスは、九人のムウサについて説明する。テルプシコラは合唱と舞踏をつかさどり、エラトは恋をつかさどり、カリオペとウラニアは知を愛し求める哲学の営みをつかさどるといった具合である。ソクラテスは言及していないが、そのほかに、クレオは歴史を、エイウテルペは笛を、メルポメネは悲劇を、タリアは喜劇を、ポリュヒムニアは賛歌をつかさどっている。

ともあれソクラテスは、これらムウサの女神の手前も、話をここでやめるわけにはいかないと言うのである。







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