パイドロス読解その十

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蝉の声やムウサの女神たちの手前、対話を続けることにしたソクラテスとパイドロスは、何について話したのだったか。それはそもそもパイドロスがこの日の話題としてとりあげた弁論術であった。パイドロスから、リュシアスの弁論術について、範例を示しつつ聞かされたソクラテスは、その欺瞞性を暴露するために、自分自身で相対立した内容の物語を語りつつ、弁論というものの様々な条件について語ったのであったが、いまやそれを体系的に整理することで、弁論の本来のあり方を明らかにしようと思ったようなのだった。

リュシアスに対するソクラテスの敵愾心は相当のもののようで、さまざまな機会に寄せてリュシアスの弁論を非難している。その最も大きな理由は、リュシアスが真に正しいことではなく、群衆が正しいと思うことが肝心だと主張していることだ。正しさではなく正しさの外見が重要だとするリュシアスの意見に、パイドロスが感心している様子なので、ソクラテスはパイドロスがリュシアスから学んだことをわざわざ復習させているほどである。それは、「将来弁論家となるべき者が学ばなければならないものは、ほんとうの意味での正しさではなく、群衆に~彼らこそは裁き手となるべき人々なのですが~その群衆の心に正しいと思われる可能性のあることなのだ。さらにはほんとうに善いことや、ほんとうに美しいことではなく、ただそう思われるであろうような事柄をこそ学ばねばならぬ。何故ならば、説得するということは、この、人々になるほどと思われるような事柄を用いてこそ、できることなのであって、真実が説得を可能にするわけではないのだから」というものであった。

このリュシアスの意見に対して、ソクラテスはその反対の意見を主張する。それは、「まず真実をわがものとした上で、この私、言論の技術を把握しなければならぬということ」である。自分自身真実を把握しないで、それを人に説明しようというのは、自分では馬を思い浮かべながら、ロバの特徴を説明するようなものなのだ。「真実の把握を抜きにして一つの正真正銘の技術が成立することは不可能」なのである。

このことをソクラテスは、いくつかの例を引きながら説明するのであるが、まず持ち出すのは、法廷での弁論である。法廷では、互いに相反した主張が真正面からぶつかりあう。同じ一つの事柄が、正反対の解釈を施されたりする。中にはエレアのゼノンの議論を思わせるような場合もある。ゼノンは、同じものが一つのものであってしかも多くのものであるようにみえたり、さらにはまた、とどまっているものでもあり動いているものでもあるように見えるということを主張したのだった。有名な飛矢停止論はその代表的なものだ。

ところで、同じものの解釈をめぐって、人をごまかしやすいのは、どのような対象についてか。互いに異なるところの多いものか、それとも少ししか違わないものか。こうソクラテスがもちかけると、パイドロスは、少ししか違わないものだと答える。するとソクラテスは、「ほかの人をごまかして、自分のほうはごまかされないようにするなら、その人は、あるものとあるものとの間の、似ている点と似ていない点とを正確に知っていなければならない」と言う。そこからもソクラテスは、「一つひとつのものの真実」を知ることの重要性を帰結するのである。

とりあえず以上の議論からソクラテスは、「もし人が真実を知らずに、相手がどう考えるかということのほうばかり追求していたとするならば、どうやらその技術なるものは、何か笑止千万なもの、そして技術としての資格がない」という主張を導き出すのである。

ソクラテスはついで、ある事物について、それについての解釈が、人によって違わない場合と、違っている場合とを比較し、人がごまかされやすいのは、どちらのケースかとパイドロスに問いかける。パイドロスは解釈が人によって異なっている場合だと答える。そのようなものについて議論する時は、対象となる事物についてあらかじめ定義しておなかければならない。そうでなければ、議論する人は全く違ったものを念頭に置きながら議論することとなり、全くかみあわないだろうからだ。

そう言いながらソクラテスは、リュシアスが恋についての議論を始めるに際して、その議論の対象である恋というものについて、定義したことがあっただろうかと言いながら、リュシアスの物語の語り始めの部分を、何度もパイドロスに復唱させるのだ。そしてリュシアスの議論が、恋について何等の定義もなしにいきなり始まっていることについて、「出発点からはじめることさえしないで、いちばん最後のところからはなしを逆にさかのぼって、後ろ向きの姿勢で泳ぎ渡ろうと試みている」と言って批判するのである。

その上でソクラテスは、プリュギアの人ミダスのために書かれたという次のような碑銘を持ち出す。
  われは青銅の乙女 ミダスの墓の上によこたわる
  水ながれ 大いなる樹の繁るかぎり
  ここ ひとみなのなげく塚の上にとどまりて 
  道ゆくひとらにわれは告ぐ ミダスこの地の下に眠ると
しかしてソクラテスは、「この中の一つの行が、最初に語られようと最後に語られようと、ちっともかわりはしない」と言って、リュシアスの物語もこれと同じようなものだと断罪するのである。

以上の議論を踏まえてソクラテスは、恋のような事柄については、厳密な定義をしたうえで議論すべきだったと言い、自分はそれにしたがって恋の狂気には二つのものがあり、それぞれについて、異なった議論ができるということを明らかにしたのだと言う。それは、「狂気には二つの種類があって、その一つは、人間的な病によって生じるもの、もう一方は、神に憑かれて、規則にはまった慣習的な事柄をすっかりかえてしまうことによって生じるものであった」。ソクラテスがした物語のうち最初のものは、人間的な病によって生じる狂気がテーマだったのに対して、次にした物語は、神に憑かれた狂気がテーマだった、というわけである。ソクラテスはこの二つの狂気をともに取りあげることで、狂気についての理解を深めたつもりなのだ、ということが、ここで何となく明かされるわけである。

さて、以上は、弁論というものは真実を踏まえて行わねばならぬということの証明だった。そのようにして、議論の前提が整って初めて、弁論の技術が問題となる。真実を踏まえたうえで、効果的な弁論の技術を駆使すれば、どんな相手でも説得できるはずだ、というのがソクラテスの見解であって、彼はかならずしも弁論術全体を否定しているわけではないのである。

そこでソクラテスが言及する弁論の技術は、当時ギリシャの弁論家たちが、それぞれにすすめていたさまざまなものを網羅している観がある。最初にソクラテスが紹介するのは、テオドロスの弁論術で、それは序論から始まり、陳述、証拠、証明、蓋然性、保証、反駁の各段階からなる一連のプロセスであった。

そのほか、ポロスは「重言法」とか「格言的話法」とか「譬喩的話法」とかを発明し、プロタゴラスは「正語法」を発明し、またほかにも「簡潔話法」とか「譬喩的話術」とかいったものもある。これらの技術は、真実にもとづいて議論をしている限りには、相手を説得する有効な手段となるのであって、それ自体として有効な弁論の条件となるものではない、ということをソクラテスは強調するのである。






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