二百年の子供:大江健三郎を読む

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「二百年の子供」は、児童文学を意識して書いたそうだ。つまり子供を読者に想定して書いたということだが、それにしてはむつかしすぎるのではないか。この小説の文章を読みこなすには、高校生レベルの読解力が必要に思える。なかにはませた子もいるので、そういう子には読解できるだろうが、標準的な子供を前提にすれば、やはり中学生以下にはむつかしいと思える。何しろ大江は、悪文との評判があるくらいで、大の大人が読んでもわかりにくいところの多い作家だ。いわんや子供においてをや、である。

登場人物は、大江の三人の子供たちの分身だ。その子供たちが、父親の故郷である四国の山の中を舞台に冒険をするという設定である。冒険というのは、ヨーロッパの児童文学では定番の、異界への旅とそこからの帰還だ。ヨーロッパ、とりわけイギリスの児童文学は、「ナルニア国物語」や「アリスの不思議な国」に典型的なように、ある狭間を通って異界へと冒険の旅に出て、そこで色々な経験をした子供たちが、成長して現実世界に戻って来るというパターンの話が多い。子どもたちの成長、それは通過儀礼に似たプロセスをとるのだが、そうした成長がテーマであるから、教育的な意義をも持っている。大江自身も、この児童文学としての小説に教育的な配慮を込めたようだが、あとがきで告白しているように、自分自身は教育者としての資格に欠けていると思っているようなのである。

この小説の中の子どもたちは、ある種のタイムマシーンに乗って異界へ旅立つ。異界とは、子どもたちがいまいる四国の山の中の、120年前の過去と、80年先の未来である。この二つの時間差が200年になる計算から、タイトルを「二百年の子供」としたのだろう。あまり能のあるネーミングとはいえない。

120年前の過去には、大江が度々小説のなかで取り上げて来た、メイスケさんをリーダーとした一揆があった。その一揆の様子を、子供たちの視点から描くというのが、この小説の一つの特徴だ。大江は、同じテーマを繰り返し小説に取り上げる癖があって、その癖がこの小説にもあらわれているわけだが、大江の他の小説を読んだ者には馴染みの深いこのテーマも、初めてこれを読む読者、とりわけ少年少女にとっては、わかりづらいところがあるかもしれない。というのも大江は、メイスケさんにしろ、一揆に立ちあがった人々にしろ、すでに読者がある程度そのことについての知識を持っているかのような前提で書いているようだからだ。

それと、筋の展開に複雑すぎるところがある。この小説は、基本的には異界における子供たちの冒険を描くことをめざしているはずなのだが、異界での物語より、現実世界での物語のほうにウェイトがかかりすぎている。現実世界での子どもたちは、両親がともどもアメリカに行ってしまって、子どもたちだけ(それを大江は三人組といっている)になった夏休みを、父親の故郷である四国の山の中で過ごしているということになっている。その四国の山の中は、それなりに面白い場所なので、そこで展開される物語にも、なかなかの面白さがある。だがその面白さが、本筋であるところの、子どもたちの異界での冒険物語を凌駕するようだと、焦点の定まらない雑然とした小説といった印象を醸し出すことになるわけだ。

子どもたちだけの生活というテーマは、「静かな生活」という小説が取り上げていた。その小説は、ある種のオムニバス形式をとっていて、さまざまな挿話を寄せ集めたような印象を与えたが、それはそれですっきりした味わいがあった。この「二百年の子供」では、「静かな生活」での挿話にあたるものを、二つの冒険という形に集約したといえないこともない。そうだとすると、この「二百年の子供」では、子どもたちの冒険は挿話の扱いを受けていて、本筋はあくまでも、現実世界における「静かな生活」ということになりかねない。

だが、それでは児童文学としては、やはり不徹底のそしりを免れまい。ヨーロッパの児童文学だけが児童文学ではないといわれるかもしれないが、児童文学というものは、やはり子供の冒険を中心にして、かれらの成長を描くところに意味があるのではないか。かれらは成長する過程で、主体的に行動する。その行動を通じてさまざまな事柄を学んでいくわけだ。だが、大江のこの小説では、子どもたちは、あまり主体的ではなく、傍観者的な態度をとることが多い。おそらく臆病な性格だからということだろうが、それではたくましく成長することはできまい。

もう一つ難点をいえば、この小説の中の子どもたちは、あまりにも頻繁に現実世界と異界との間を往復しすぎる。ちょっと怖さを感じたり、都合の悪い事態に直面すると、すぐに現実世界へと逃避する。怖い夢を見ていたものが、これは夢だと思いながら、その恐怖から逃れるために、意識的に目覚めるようなものだ。それでは本物の冒険はできない。冒険が半端なら、経験も半端なままだ。

冒険を描きながら、妙に教訓的なところもある。特に未来についての記述だ。その未来は、ある種のディストピアとして描かれているのだが、それはその世界の子どもたちが、ビッグブラザースのような抑圧者によって洗脳教育を受けているという内容。大江はそれを通じて、主人公の子どもたちが全体主義への反感と自由への希求を覚えたというふうに書いているのだが、それは子ども相手の物語に相応しい書き方か、問題は残ると言わざるを得ない。

こんなわけでこの小説は、児童文学としては、成功しているとはいえない。もっとも大江本人は、この小説に強い愛着を感じているそうだが。






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