Aサインデイズ:崔洋一

| コメント(0)
sai01.asign4.JPG

崔洋一は、在日韓国人二世として、日本におけるマイノリティの存在にこだわり、そのこだわりを映画でも表現した。1989年の作品「Aサインデイズ」は、沖縄をテーマにしたものだ。沖縄の人びとは、在日韓国人とは違って、まぎれもない日本人だが、二級国民扱いされて、差別されている。米軍基地の大部分を集中的に押し付けられているところは、その最たるものだ。この沖縄差別を、いまの安倍政権は臆面もなくやっている。沖縄の人たちがいかに反対しようとも、そんなものは二級国民の悪あがきとばかり、沖縄の人々の声を、鉄面皮に無視している。だから沖縄の問題は、日本におけるマイノリティ問題の一つの、しかも大きな部分といってよい。

この映画は、本土返還直前の沖縄の若者たちの青春群像を描いている。かならずしも沖縄差別を前面に押し出したものではなく、若者たちの生きるエネルギーとか若者らしい恋愛感情を描いているのだが、なにげない言葉のやりとりとか、かれらの生きている環境とかが、沖縄の人たちの置かれた独特の状況を感じさせるのである。その状況は、米軍支配下にあっては、植民地の境遇を思わせ、したがって差別どころか、露骨な抑圧を感じさせるので、いきおい政治的な色彩を帯びざるを得ない。だが映画は、政治的なメッセージを発しているわけではない。若者たちの、それなりの日常を、淡々と描いているのである。

舞台はコザ市の、米軍基地近くの繁華街にあって、主に米兵を相手に営業している店で、そこに集まって来る人間たちの様子が丹念に追われている。その店を舞台にして活動しているロックバンドがあり、それに十六歳の少女があこがれる。その少女を、バンドのリーダーが手ごめにして、子供を作らせる。だがリーダーは男としての責任をとり、少女と彼女が生んだ子供を自分の家に入れる。しかし、遊びたい盛りのリーダーは、生活費もろくろく与えない。怒った少女が男をなじる。それに対して男もなじり返す。少女が放った言葉は、沖縄人を蔑視する言葉であり、男が放った言葉は、米兵との間で生まれたいわゆるハーフを蔑む言葉だ。ちょっとした感情の行き違いが、このような差別意識を顕在化させるのである。

人間同士の差別を思わせる言葉が、かなり頻繁に、登場人物同士の会話のなかで出て来る。白人兵は、黒人やアメリカ原住民出身の兵士を人間扱いしないし、日本人は日本人で、米兵に悪態をつく。時にベトナム戦争の真っ最中で、米兵が死ぬのは日常的なことだった。そんな米兵に向かって日本人は、お前らベトコンに殺されてしまえと罵る。その米兵のベトコンを憎む気持ちはすさまじく、俺はベトコンの肉をステーキにしたが、まずくて食えない代物だったなどとぬかす米兵もいる。

といった具合で、この映画には人間同士の差別を思わせる言葉が、全編に氾濫している。まさに差別言葉のオンパレードといった調子だ。

映画のメーンプロットは、大人になった少女がバンドに加わり、次第に成長していく過程を描く。本土返還後、どういう理由かわからぬが、バンドは解散し、リーダーはダンプカーの運転手に転身する。しかし、元少女のほうは、かつてのバンドの栄光が忘れられず、なんとか再興したいと願う。そしてその願いがかない、しかも念願だったレコードへの録音も果たせたところで、映画は終るのである。

十六歳の少女を、当時二十四歳だった中川安奈が演じていたが、この女優は画家の中川一政の孫娘だそうだ。日本人離れした容貌は、母方からきたらしい。なお、タイトルの「Aサインデイズ」とは、米軍の軍政用語で、風俗営業の許可のカテゴリー「Aサイン」から来ている。






コメントする

アーカイブ