経済復興:日本とドイツ

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日本とドイツは、ともに敗戦国として、国土を焦土と化され、それこそ瓦礫の山から戦後の再出発に取り組んだわけだが、いずれも比較的短期間で復興を達成し、世界の経済大国として復活した。そのプロセスのなかで、ドイツは統合ヨーロッパの盟主となっていき、日本は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と呼ばれて、自尊心を満足させることができた。その復興のパターンには、共通するところも多いが、相違する点もある。

敗戦直後には、両国とも深刻な経済危機に陥っていた。なにしろ生産設備が破壊され、生活物資が充分に供給できないために、すさまじいインフレに見舞われ、庶民は深刻な生活苦に直面した。経済システムは崩壊状態といってよく、人々は闇市場でかろうじて生きる糧を得るのにやっきだったのである。こうした状況から、なるべく早く抜け出て、国民に安定した生活を保障することが最大の課題だった。そのためには、経済復興を早く実現しなければならない。

両国とも、このいち早い経済復興という課題の解決に、比較的スムーズに成功した。成功の原因には相違がある。まずドイツについて。ドイツは四か国によって分割占領され、しかもソ連やフランスのように、多額の損害賠償を要求する国もあったりして、戦後の復興には課題が多かった。そこへ手を差し伸べたのはマーシャル・プランである。これはアメリカの国務長官マーシャルが提案したもので、西ヨーロッパ全体の経済復興を援助しようとするものだった。援助の理由としてマーシャルがあげたのは、冷戦の進行を前にして、アメリカを含む西側が一致団結してソ連と共産主義の脅威に立ち向かうには、疲弊した西ヨーロッパの経済を立て直して、ソ連に対抗しうる経済的実力をつける必要があるというものだった。この西ヨーロッパの一員として西ドイツを加えることが重要であり、西ドイツに対して巨額の賠償要求をするのは、長い目から見て良策とは言えない。こういう判断から、マーシャル・プランは、西ドイツを含めた西ヨーロッパの経済復興をめざしたのである。

マーシャル・プランによって、1948年から1952年までの四年間に、ヨーロッパの16か国に対して170億ドルの援助が与えられ、そのうちドイツには13億ドルが割り当てられた。この援助があったために、フランスは対独賠償請求を取り下げたし、西ドイツは経済復興に専念することができるようになった。それには、1948年6月の通貨改革もプラスに作用した。これは西ドイツだけに通用する貨幣の発行に踏み切ったもので、東西ドイツを経済的に分断し、西ドイツが西ヨーロッパとの結びつきのなかで発展していくことをめざしたものだった。この通貨改革とマーシャル・プランによる援助が相互作用して、西ドイツ経済には成長へのドライブがかかったのである。

敗戦による生産設備の破壊は、西ドイツでも深刻なものだったが、日本とくらべればましな状態だった。というのは、日本の場合には工業インフラがひどい破壊を蒙っていたのに対して、ドイツの破壊は都市の住宅や交通施設に集中しており、生産設備の破壊はそんなにひどくはなかった。だから、きっかけさえあれば、生産設備のフル稼働もむつかしくはなかったのである。ドイツの場合には、ナチス時代に戦争遂行のための重工業化が一段と進んでいたこともあって、工業国として復活するモメンタムは十分にあったといえる。必要なのは、資金と労働力だった。その資金はマーシャル・プランによって、労働力はかつての兵士たちが生産現場に戻ることによってまかなわれた。

もうひとつ、ドイツの経済復興を加速させたものがある。ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体である。マーシャル・プランは、ドイツを含めた西ヨーロッパを援助することを目的としていたが、その先には、フランスとドイツの対立を解消し、両国を経済的に統合しようとする動きがあった。その動きは、シューマン・プランとして結実するのであるが、これは石炭と鉄鋼について、ドイツとフランスとが共同して生産管理や流通管理を行おうとするものであった。とりあえず石炭と鉄鋼の管理を通じて、独仏の経済的一体化を狙ったものである。のちには、この構想にその他のヨーロッパ諸国も加わり、1951年にヨーロッパ石炭鉄鋼共同体が実現した。

この共同体は、とりあえずは石炭と鉄鋼の管理を目的としていたものだが、後には他の経済分野にも適用を拡大し、次第にヨーロッパの共同市場の創設へと発展していく。そういう流れの中でドイツ経済は、ヨーロッパという巨大市場を自らの経済発展のモメンタムとして活用できるようになる。ドイツのその後の堅実な発展は、ヨーロッパの一員として、しかもその指導的な立場にあるものとして、ヨーロッパの発展と共に発展してきたというふうに言える。

一方日本についてはどうか。日本の占領は、事実上アメリカによる単独占領だったので、ドイツのような複雑な形にはならなかった。敗戦後の日本はドイツ同様深刻な経済危機に直面したが、アメリカがそれに対して、ドイツ程の問題意識をもっていたとはいえない。アメリカの主要な関心は、日本の軍国主義化を支えた経済体制を解体することであった。それは、財閥の解体とか、独占の禁止とか、労働運動の開放という形をとったわけだが、そうした措置は、日本経済の復興よりは、その一層の混乱につながったと批判された。それに加えて、戦後のインフレを終息させるという名目で、ドッジ・プランによるデフレ政策がとられ、日本経済はますます沈滞した。このままではひどいことになるだろうと、誰もが思ったほどだ。

そこへ救いの手が差し伸べられた。朝鮮戦争特需である。日本はドイツのようにはアメリカによる経済援助を受けることができなかった。それはストレートな経済援助という意味でのことで、実際には、朝鮮戦争が莫大な軍需を日本にもたらし、日本は一気に潤うことになったのである。朝鮮特需によって日本経済が活性化し、そのことで経済のファンダメンタルが底上げされ、経済成長へのモメンタムができた。あとは、そのモメンタムを発動させるための条件が継続的に整えられることが必要だった。その条件とは、需要の増大と労働力の確保である。需要の増大という点では、アメリカが輸出先として大きな役割を果たすようになった。それまでは、日本の輸出先としてアメリカが期待できる事情ではなかったものが、大っぴらに輸出できるようになった。日本の戦後の経済復興は、主に輸出によって牽引されたわけだが、その輸出先の大部分を、アメリカが受け入れてくれたわけである。日本は、軍事的・政治的にアメリカへの従属を深める一方、経済的にもアメリカに大きく依存する体質になっていった。そこが、ヨーロッパの一員として、ヨーロッパという巨大市場をあてにすることができたドイツとの大きな違いである。日本は、アメリカに生存を保障してもらうことで、近隣諸国にあまり気を使う必要は感じずに済んだ。そのことが、いまに至る東アジアでの孤立といった事態につながっていくのである。





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